記念大会の記念講演について

内木 文英

 高校演劇の全国大会が始まって五〇回をむかえるという記念すべき大会に、審査員をつとめ、記念講演をさせてもらえる。これ以上光栄なことがあろうか。ある意味で、私も高校演劇といっしょに生きてきたのだ。
 記念講演は、大会初日の七月三十日、開会式、そして四校の発表が終わった後で、午後四時から一時間とうかがっていた。
 それにしてもたいへんな大会だった。地元の運営をまかされた方々、全国事務局の役員をされている人々のご苦労、察するにあまりがある。二日目の上演すべてが中止され、三日目の最終日に七本の作品が上演され、ワークショップも閉会式も行わないという状況の中で、中心になる人たちが決断され、どうにか最悪の事態を防ぐことができた。そのことで、ご苦労された方々に心から敬意を表したい。
 私の記念講演では、三つのことを話そうと決心した。
 第一にどうして高校演劇の全国組織(全国高等学校演劇協議会)が結成されたか、という問題であった。
 第二に全国高校総合文化祭が、どういう経緯によって開催されることになったか。
 第三に、高校教育に演劇がどう
関わっていったか。演劇科を持った高校の誕生。科目としての演劇を、高校で教えることができるようになったが、高校演劇はその問題にどう関わったか。
 昭和二〇年代の後半、早川書房から発行されている演劇雑誌「悲劇喜劇」が、非常な熱意で高校演劇の全国組織化を応援してくれた。早川清社長、遠藤慎吾編集長、編集委員であった西沢揚太郎、大山功、加藤衛、茨木憲の各氏が情熱を傾けて、全国組織を結成しようとしていた私たちを応援してくれた。そのすべての方々が亡くなられたが、おおげさな言い方が許されるなら、命のあるかぎり、私はその方々に感謝の気持ちをなくさないつもりだ。
 文部省社会教育局芸術課の福原課長補佐と北条明直事務官(後に日本アマチュア演劇連盟会長、本年三月死去)が、私たちの運動を支えてくれた。
 「演劇は学校教育になじまない」と考えている人が少なくなかった時代であった。学校教育は、モラル、マナー、ルールなどを重視する。それらは「常識」に裏打ちされたものだが、演劇には「常識」を超えたものがある。それが学校教育の中で、演劇の立場を難しくしているように思われる。
 高校演劇の第一回全国大会は、文部省と共催で開催された。国立の施設、一ツ橋講堂を会場とし、「全国高等学校演劇指導者講習会」という名称で、昭和三〇年(一九五五年)八月四日から3日間、盛大に開催されたのだ。全国各高校への連絡は、文部省芸術課が、都道府県すべての教育委員会を通し
て行なってくれた。講師費用についても配慮していただいた。八月四日の朝、私は会場の玄関前に立って、集まってこられる参加者をむかえたのだが、感激のあまり涙があふれた。
 第二の、全国高校総文の始まりについても、演劇が関わっている。全国大会がコンクールの形式をとるようになったが、ブロックを開催する費用が不足した。高知県の包国(かねくに)先生をはじめとして各地の事務局から、会長である私に対して、ブロック大会を運営するための国の補助金をお願いしてほしいと強く要望されていた。当時、関東の事務局長だった一柳俊邦さんと相談して、一ブロック三十万円お願いしてみようということになった。八ブロックだから、二百四十万円ということになる。区切りよく三百円欲しいという要望書を書いて、高校演劇出身の浅利慶太氏に相談した。三百万欲しいと要望したらゼロになる可能性が高い、三千万欲しいと要望したら三百万出るかもしれないと浅利さんに言われ、三千万の要望書を苦労して書き上げた。その三千万が、国会議員のK氏などの努力などがあって通ってしまったのだ。三十年も前の話だから、今なら一桁違う金額かもしれない。関係者が呼ばれて検討した結果、高等学校文化系クラブの全国フェスティバルを開催しようということになった。
 昭和五二年(一九七七年)夏の千葉大会から、演劇の全国大会も、全国高等学校総合文化祭演劇部門としておこなわれるようになったのだ。
 第三の話は、時間の都合で話すことができなかった。高等学校の教科科目を広げるべきだという教育課程審議会の決定もあって、私のところに演劇の「実験授業」の話があったのだ。日本大学鶴ケ丘高校は、高校演劇全国大会の常連でもあったし、日本大学芸術学部の付属でもある。演劇部を指導する米本一夫教諭とも親しかったので、その実験授業を引き受けてもらった。昭和五四年から三年間、その実験授業が行なわれた。日本大学芸術学部演劇科の高山図南雄、松原剛教授をはじめ、日本大学本部の方々、さらに竹内敏晴、中村美代子などという演劇人、私や坊丸一平、町井陽子など高校演劇指導者などが運営委員として加わって、意見を述べたりした。昭和五八年四月、明治大学で行なわれた日本演劇学会で、米本一夫と私が、この演劇実験授業について報告した。
 東京都には昭和五九年(一九八四年)四月、関東国際高校に演劇科が誕生する。劇団四季の町田裕氏がその開校に力をつくし、演劇指導には劇団四季の指導者が加わっている。その翌年、昭和六十年(一九八五年)四月、大阪大学教授の山崎正治氏の力を得て、兵庫県が演劇科を持つ高等学校を創った。県立宝塚北高校がそれである。
 最後の結びの話は用意しておいた。
 昭和四七年(一九七二年)五月のことである。ワシントンで国際通信教育学会があり、日本の私学通信制高校を代表して参加してほしいというのでアメリカに行った。浅利慶太氏から、アメリカへ行く
ならブロードウエイで「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観てきてほしい、と言われた。私はアメリカの高等学校で「演劇」をどう教えているか知りたかった。
 浅利さんは、もと劇団四季に所属していたセンゴク・ノリコさんを紹介してくれた。
 彼女の紹介で、マンハッタンの五番街に近いスクール・オブ・パフォーミング・アーツ(芸術表現学校)という高等学校を訪問した。
 二年生約五〇人ほどの演技実習の授業を、その教室の隅に座って、見学することができた。
 授業が終わったあとで、中年の女性の教員が言ったのだ。
 「演技の勉強とは、身体の奥に隠された、自分にも気付いていない、真実の自分を発見することです」
 「真実の自分を発見する」ことは、学ぶことのもっとも大きな目標の一つではないかと考えてる。
(全国高等学校演劇協議会 名誉会長