| ■ 審査員講評 | |||
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演劇をすることの幸福
鴻上 尚史 |
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すてきな贈り物をありがとう
三輪 えり花 |
オーハシ ヨースケ |
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| 遥か昔、ギリシャで演劇をやっていた人々は数万人もが集まる祝祭競技会を開いてその年の最優秀作品を選んでいた。選ばれたのはおそらく、その場にいた人々を巻き込み、憤慨させ、考えさせ、納得させ、感動させた作品であったろう。規模こそ違え、この全国高校演劇大会でもまた、競い合われたのはそういうものだった。大会では皆、熱に浮かされる。ここで頭を冷やしてもう一度、今大会の作品について考えてみたい。 まず、全体評。全ての作品が、自分と人生と社会という関係をしっかり見つめながら作られたことがよくわかる。だが、ことばが聞こえてこない。繊細な表現やドラマの展開はことばにこそ表れる。会場は確かに広い。だが全国大会に出ることはずいぶん前にわかっているわけだから、それにターゲットを合わせて準備すべきだ。気圧の違いや湿度の違いが命取りになるスポーツ大会と同様に。どうすれば聞かせられるかをもっと研究すれば、それは演技も舞台も向上させることになる。演出手法は様々だったので各評で述べる。 『馬を洗って…』 美しい色の幅広の布を使った転換が秀逸。アンサンブルがまるでチアリーディングのように弾けるエネルギーで素晴らしかった。長閑な田舎と現実の戦場とが交錯する場面では、捕虜の早替わりにも息を呑んだ。だがリアルな人間同士の会話で心の通じ合いが弱い。絵本を戯曲翻案したためか、ドラマが台詞ではなくナレーターの説明で終わってしまった。 『老人ホーム ひまわり園』 老人ホームの文化祭というイベントを利用して、リアルな台詞と物語にダンスや笑いを、必然性を持たせて導入する構図で、ほのぼのさせた。だが老人を扱うからには身体的特徴にも気を配るべき。感心したのは、現代の姥捨てを扱っているのに、台詞を言う当人たちがさらりと喋ること。観ているこちらは却って悲しくなる。こうした捻りの演技の本質をきちんと押さえていた数少ない学校だった。 『挿話 〜エピソード』 南国の自然に圧倒されるように建っている掘っ立て小屋と日の丸が空威張りの日本軍を象徴する装置が良い。そこで時代錯誤的に始まるダンス(かなりうまくてかっこいい)が、この芝居の前提となるエピソードを語っているのがとても演劇的。解釈とメッセージが明確で、個々の俳優も魅力的だったが、演技が説明的になってしまったのは惜しい。 『報道センター123』 高校の放送部を舞台に、食の好みを宗教戦争と掛け合わせ、さらに人権問題にまで発展させた時事問題的戯曲をうまい具合に乗りのいいコメディに仕立てた。俳優たちの瞳と思い切りの良さがシリアスさを際立たせ、コミックとのバランスがうまくいった。だが戯曲が、構成的に観客を引っ張りきれず、最後は失速してしまった。 『トシドンの放課後』 内向的男子と乱交的女子とが一室に閉じ込められて交わす微かな友情。互いに外に心を開けず無理をして生きていることがよくわかる。何よりも演技が繊細で無理がない。暴力的なことばの応酬の後で無言の場面に込められた密かな優しさと思いやり、細やかな悩みと感情。ビジュアル的に驚かす演出が流行る中、演技の微妙さに焦点を当てた演出は好感が持てる。 『Breakthrough 〜ガンバレ井上ひろし!』 ケタケタと脈絡もなく進んでいくように見えた物語が終盤、見事に人情ものとして観客を引きつけた。ご近所の運動会に絡んだ即興芝居のムーブメントが実によくできていて、稽古に夢中だった様子が伝わってくる。お笑いのテンポと強引さも、テレビに慣れている私たち観客を自然に楽しませてくれた。が、会話が成立していないのは致命的だった。 『HR―ホームルーム』 冒頭から破壊的なエネルギーで怒鳴りまくる不良学生達は何を言っているのか全くわからない。芝居ではなく、本気のナマをやっている。それが突然ストップモーションになると明るいまますたすたと何食わぬ顔で転換を始める。これが虚構であり、その中に真実がある、ということを大胆なスタイルで見せた。登場人物が徐々に心を開いていくドラマの波やペースもうまく、最後は泣かせた逸品。 『Making of『赤い日々の記憶』』 黒幕の前に印象的に落ちた明かりの中で立ち尽くしたまま本で顔を隠すようにして、ひたすら朗読を続ける。これもまた、ひとつのスタイルである。自らの心の奥底に手を伸ばし、禍々しい何かを引きずり出してそれに面と向かう。技巧のないシンプルさが俳優たちのストレートな姿勢を、その立ち姿と共に印象付けた。たまに見せるユーモアとナチュラルさに底力が感じられる。ナマをアートに昇華させていって欲しい。 『なにげ』 何枚も吊られた高さの違う布と雪洞で表した幻想的な洞窟の世界。アメリカに憧れる「異人さんに捨てられた」赤い靴の女の子と、日本古来の童話の世界を掛け合わせたアイディアの新奇さ。女の子は分裂症で、童話の登場人物たちもアイデンティティを失っている。それらを説明や道徳的概念などを大胆に削りイメージの劇場として提示した。だがいかんせん、謎が多すぎた。 『ボクサー』 ストイックなはずのボクサーが、こちらがついていけないほどのおバカ、という見せかけの設定はおもしろい。寒いギャグと自分たちも心得つつ大胆に笑いに挑戦してくる意気込みと集中力に感心した。時たま見せる真剣な表情に俳優の自然な演技のうまさを感じる。お笑いに頼らず、ストレートにリアリズム劇として演じたほうが、うまさとドラマが際立ったかと思う。 『修学旅行』 布団を並べただけの修学旅行の女子部屋で消灯前後の小一時間のうちに繰り広げられるひと騒動。赤いジャージと方言が登場人物たちを自然に見せ、説得力を持つ。随所に笑えるポイントが散りばめられた台本を、まじめな顔と、巧みなテンポで喋ってのけるから、うそ臭さがほとんど感じられない。それが、沖縄と現在の国際情勢に見事に集約されていく。これだけ自然なら、大事な台詞こそ、さらっと言って欲しかった。 以上、演出と演劇教育に携わる私には、発見と喜びの連続の日々となった。たくさんの贈り物を貰った気分だ。戯曲の読解や、それを立体化して表現する方法、俳優の演技術等、試行錯誤を繰り返した顧問と裏方の努力に頭が下がる。だが、観客におもねるあざとさを感じる箇所が、全体に多すぎると思ったのも事実。自分たちを冷静に観る目を養って邁進して欲しい。いずれにせよ、みんな、良いものを見せてくれて、ありがとう。 (演 出 家) |
みんな素晴らしかった! ひとつの作品を仲間と創り続けてきた皆さんの「濃密な時間」に惜しみない拍手を送りますBRAVO! まず最初に全体を通して感じたこと。演劇は人と人とのコミュニケーションだ。ある状況の中での登場人物達のコミュニケーション。その登場人物達が創る空間感覚、つまり距離感、位置関係、空気感、それ自体がまず大前提に何事かを伝え合っている。せっかく稽古場で又は最初に公演した会場で創ってきたその空間感覚を劇場が広くなったからといってその分広げてしまうと登場人物同士が創る空間力が薄れてしまう。極めてプライベートな会話をパブリックな距離感で語り合うの変だ。そんな空間感覚、一つ踏み込んで「場の持つ力」を体感として認識して欲しい。 「馬を洗って…」 主演のカツトシが夕日を見つめる表情が素晴らしかった。それは出演者全員の生き生きとした演技・表情と、素敵な物語に支えられた「えもいわれぬ表情」だった。しかし馬の「ソンキの心」が舞台に現れなかった。例えばカツトシがソンキに同化し、カツトシ自身がまるで馬のソンキになったかのように全身を使い演技するところがあったらソンキとカツトシの物語がもっと見えてきたかなと思う。 「老人ホーム ひまわり園」 登場人物のキャラクターは絶品におもしろい。しかし冒頭にも書いた俳優の距離感、位置関係が一番ちぐはぐになってしまった、残念。プライベートな会話が言葉を手渡す感覚ではなく、まるで言葉を放り投げている感覚になってしまった。それから新入りの老人伸子と娘のぶつかり合うところでメロドラマチック音楽を入れたりして大切な「葛藤」を流してしまった。葛藤を見つめながらも、最後の老人ホーム文化祭の祝祭性につなげられれば、もっと深く老いることや人生を見つめられたと思う。 「挿話 〜エピソード〜」 まずは加藤道夫さんのこの戯曲をよく取り上げたね。そしてなんて普遍性をもったテーマなんだろう。人間が戦争や殺戮の度に味わってきた苦悩だ。真正面から立ち向かって演じていたね、素晴らしい。一つだけ、亡霊の演技が演劇的形式になっていてこちらに迫ってこなかった。自分たちにとってこの亡霊は何なのか、を問い詰めて独創的に演じたら倉田師団長と亡霊との会話が真に迫った。結局あれは倉田の心の中での自問自答、(魂)との対話ではなかったか。 「報道センター123」 主演の「あさひ」がイスの背もたれに仰け反って「あーもうだめ!」と苦悩する姿が伸びやかだった。全身で溌剌と苦悩していた。指人形を使ってそれとなく自己との対話を表現したり、学校の放送部という社会的状況のなかで良く一人の学生の内面を表現していた。演劇は世界を映す鏡だ。今の「TV報道」の世界を映し出し学生の等身大の視点から批評していた。老教師加藤のキャラが劇に奥行きを作った。今回最も楽しめた作品だ。 「トシドンの放課後」 3人の演者は皆良くそのキャラクターを描ききっていた、ブラボー。作者の上田さんの戯曲は行間に演者の「想い」を反映させる間を十分に作った。この間を活かすのに緊密な空間性が必要なのだが「あかね」の視線が落ち過ぎていた。「心が閉じていることを表現する」視線でなく、「役者自身が閉じた」視線を作ってしまった。また作者は地味な劇だが最後に一人の女の子の中に地をも揺さぶる「鬼トシドン」を顕現させ劇的展開を作った。なのに演出的にその迫力を殺してしまう位置関係を役者に取らせてしまった。劇は「場(空間)」をどう作るかでもあるのだ。 「Breakthrough 〜ガンバレ井上ひろし!〜」 全身で演じたギャグ、ムーブメント、ダンスとっても面白かった。さて、ひとつの劇にはここを見せたい、聞かせたいという山があるでしょう。この劇では汚名挽回、娘のさつきを背負ってお父さんが必死で走るところだと思う。娘さつきがパパを心底見直すほどに「舞台で走る」ぼろぼろになるまで走る。そこまでやったら凄かった。そこが山になったと思う。 「HR ―ホームルーム―」 暴力的なクラスのうるささ、舞台転換の静止画、この落ちこぼれのクラスを一人受け止めようとする新任教師。劇の輪郭がダイナミックに演出されていた。だからこそそのうるささの中で聞かせたいセリフを聞かせる細やかな演出も大切だ。小野先生が文化祭にやって来た不良を殴るところをギャグにしてしまったのは失敗だ。ここでこそ派手にうるさく戦う暴力的「場」を創るべきだ。そうしたら最後の記念写真がもっと泣けた。 「Making of 赤い日々の記憶」」 衝撃を受けた。中部ブロックの学生によって選ばれた作品だ。学生達がこの作品を選んだことに、私は衝撃を受けた。自己表現することは、表現の方法そのものの模索である。この作品はその表現の王道を行っている。たとえどんなに稚拙でもぎりぎりのところで舞台表現になっている。その「ぎりぎり」の姿勢が中部の学生を感動させたのだ。私は彼らの自己表現に立ち向かう姿勢を高く評価する。 「なにげ」 イメージの造形力は圧倒的である。ラストの赤い靴の集団に至っては有無を言わせぬ迫力だ。もしこれをなにげなく演技してくれたら、この作品は圧倒的だった。何か全部「これって面白いでしょう」って演出的あざとさを感じてしまった。「学校に行かなくなる」一人の女の子の「痛み」が世界を捻じ曲げているのではないのか。その「痛み」の肉感が感じられなかった。 「ボクサー」 打たれることの怖さを知った高校生ボクサーと、まったく逆向きなキャラクターの二人の美術部員との組み合わせの筋立てはとても面白い。だが昨年この劇を立ちあげた先輩の演技をなぞってしまった観がある。もっと「エチュード感覚」で互いのコミュニケーション、演技を立ちあげたら説得力が出た。 「修学旅行」 顧問の畑澤先生と演劇部員が作り上げた高校演劇の傑作だ。特に布団を領土に見立て陣取りになり戦争になって行く様は面白かった。「沖縄」「修学旅行(旅館の女子部屋)」「今の世界の戦争」こんなテーマを巧く活かして作品にまとめた。力技だ。だが私はこの作品が生まれる土壌そのものは「沖縄の持つ場の力」だと思う。そんな「場の力」を感じて言葉を生み出すのが「作家」だと思う。破綻することなく、この難しいテーマをまとめてはいるが、「沖縄の持つ場の力」に動かされて言葉を出すような 〜そんなものを書き込んだら破綻するかもしれないが〜 そんな「場の力」を写し取ってはいない。沖縄の語り部の人達は悲しい、悲痛な想いでこの劇を観ると思う。そういう現状を直視させる作品だ。 (身体詩TAICHI―KIKAKU代表) |
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溝 口 勲 |
演劇とは何だろう
州浜 昌三 |
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| 大会最終日は八戸三社大祭の前夜祭でもありました。大会が終わって会場を出ると、壮麗な山車の陰から子供たちの掛け声やお囃子が聞こえてきて、八戸は子供が大切にされている街なのだと感じました。高校生の熱い思いを表現するのにふさわしい街でした。 今大会は、生徒講評委員会が正式に開催されました。演じること作り上げることと同時に、観ること論じることで、高校演劇という表現活動の両輪がそろったことになります。文化活動としての全国大会がさらに充実し、かけがえのないものになったと思います。生徒講評委員会が永く続くことを願っています。 『馬を洗って…』 群舞と歌で、洗練された舞台を作り上げる独自のスタイルを持っている。カツトシが川で馬を洗うシーンは美しく、さわやかな風が吹き渡ってくるようだった。そのせっかくの優れたスタイルが、召集令状や軍事訓練のシーンなど、説明的なことに使われていたのはもったいなかった。不幸を呼ぶと言われる三本白の馬を巡る、父子の相克のドラマに集約されたら、父のカツトシへの思い、悲しみがもっと迫ってきて、背景にある戦争も伝わったと思う。 『老人ホーム ひまわり園』 ホーム内で起こるエピソードの積み重ねから、様々な人生が見えてくる心温まる作品。欲を言えば、エピソードを貫く太い芯となるドラマが欲しかった。実習生川島君や入園者のキヨさんなど誰かに絞り込んでいったら、感動が高まったと思う。徘徊でホームに迷惑をかけた老母を娘がとがめるところなど、印象に残るエピソードが散りばめられていただけに惜しい。 『挿話 〜エピソード〜』 いきなり、住民虐殺から始まりどきっとした。戦争を加害の視点から取り上げた力作。戦争体験のない世代が、どのような舞台を作り上げるか心配していたが、期待以上だった。南の島の舞台美術、軍人の衣装・小道具など力のあるスタッフがしっかり作品を支えていた。島民の亡霊たちが師団長を狂気に追い込んでいく過程をもっとていねいに描いて欲しかった。そうしたら彼の狂気の意味がより鮮明になったと思う。 『報道センター123』 劇的仕掛けとしては、好きな作品だ。校内の出来事を、テレビ報道として全校に流すという、普通の高校ではほとんどありえない設定を、マスコミのパロディ化で乗り越えた。ただ、学食の和食派と洋食派の対立が途中で消えて、教師のセクハラ疑惑に話が移ったことで、スピード感がそがれた。どっちかの話ですっきりいきたかった。後半、マスコミ批判が前面に出すぎだった。報道部員たちが最後まで突っ走ることで、十分伝わったと思う。 『トシドンの放課後』 少人数の演劇部には困難が多いが、優れた脚本を探し出し、心に残る作品を作り上げた。千人を越える会場で三人だけの芝居を演じ切ったのは、立派だった。改めて高校生の力を感じた。登校謹慎の少女と別室登校の少年の間に、会話が成立する機会はほとんど無いといってよい。この作品では、その二人の出会いを生徒相談室という場に設定することによって、無理なく一つのドラマに発展させることができた。 『Breakthrough 〜ガンバレ井上ひろし!〜』 この作品は、小学校の運動会に目をつけた時点でなかば成功している。今、親子が一緒にわくわくするような場はそう多くはないだろう。子供がかっこ悪いおとうさんを避け、運動会に来るなというのは、よくある話。それがどう展開しどう解決するのか、期待させる出だしだった。その後面白いシーンの連続で、一番観たい親子関係のドラマが後退してしまった。怪我をしたさつきを背負って、ひろしが病院に走る秀逸なシーンがあったのに、残念。 『HR ―ホームルーム―』 高校生の問題に真正面から取り組んだ作品。舞台から伝わってくる迫力に圧倒された。テーマも素材も新しいものではないが、高校生の現実が変わらない限り、このような作品が何回作られてもよいと思う。スタッフ、キャストを総動員して、力ずくで訴えてくる舞台だった。極めれば、何も言うことなしなのだが、小野先生の最後の一言がしゃべりすぎだった。濃密な時間を共有した観客には、本当に一言で伝わると思う。 『Making of『赤い日々の記憶』』 私が高校生に求めるのは、演じること作り上げることで、自分たちが変わり、それが伝わってくる舞台だ。この作品を観て、観客の前に立ち演じることは、変わることなのだと改めて思った。舞台は不登校体験の朗読で進行するが、後半、メイキングの部分は会話の形になっている。そこは思い切って、朗読ではなく会話として成立させ動いたほうが、自然で、心も体も開放されたのではないかと思う。 『なにげ』 このような作品に出会えるのも観劇の楽しみの一つ。前半は不思議な舞台装置の中に奇妙な人物や生き物が次々と登場して、どこに連れて行かれるか期待感でわくわくしていた。後半、全員が出揃うと展開が単調になって、失速してしまった。母の声で始まり母の声で終わるという親切な構成も、自由にイメージを膨らませる余地をせばめてしまった。へたな解釈をあざ笑うような奔放な展開があってもよかった。出演者の高い演技力がそれを十分支えられたと思う。 『ボクサー』 リングのある部室のセット、繰り出すギャグなど、劇作りの楽しさが伝わってくる舞台だった。挫折したボクシング部員が、三ヶ月リングの上でオセロをひたすらやり続けているという設定が面白い。ただ、そのあとの展開に生かしきれなかったのが残念。彼がなぜ立ち直れたのかわからない。彼の立ち直りに、美術部員、顧問、マネージャーがどう関わったのかはっきりみえてこなかった。人間関係がもっと突っ込んで描かれていたら、楽しさが倍加したと思う。 『修学旅行』 修学旅行中の一晩の出来事が五人の女子高生を中心にリアル・タイムで進行していく。山場の枕投げまで、人間関係をうそのない描き方で、リズムよく積み上げていったので、自然な笑いを作り出すことができた。しっかり会話が成立する舞台は、見ている側も演じている側も楽しい。方言も含めて自分たちの言葉で語ったことが、大きな力になったと思う。面白すぎて、隠しテーマの平和問題が、少し後退してしまったが、全てを望んだら欲張りすぎだろう。 (全国高演協顧問) |
八戸市は未知の町だった。土地の人達は少し控え目だが人を信じている大らかさがあり故郷に帰ったような懐かしさがあった。三日間心配りが行き届い大会だった。 十一校の劇を観て様々なことを考えた。芸術は形式と内実(容器と中身)とのせめぎ合いである。内実は常に型を壊し新たな表現様式を獲得しようとする。唯一意識的に型も追求した伊達緑丘高校の劇はとても貴重な挑戦だと思った。一見不条理劇に見えながら割り切れない秩父農工科学高校の劇は、どんな容器にあの豊富な中身を盛ろうとしたのか。その不明確な技法にもわかりにくさの原因があったと思うが不思議な魅力にあふれた劇だった。刈谷東高の発表は、素材を造型し小宇宙を舞台に創るのが劇だと思ってきた僕には衝撃的だった。演じる意識を排除し素材朗読だけに徹したパフォーマンスは、一人芝居や朗読劇とも違う。演劇の枠を意図的に排除し内実を見せようとしたのか。挑戦を受け「演劇とは何か」と考えつづけた。 高校演劇は観客もほぼ演劇部員の場合が多く、教育的な配慮もあるので、集団だけに通用する自己満足に陥りやすい。それは笑いを取るための底の浅い台詞や演技、安易でご都合主義的な葛藤の解決などになって表れる。笑も重視して観客を惹き付けようとした劇に江北高校、華陵高校、磯島・枚方西・枚方なぎさ高校、秩父農工科学高校、東根工業高校、青森中央高校があげられる。江北、華陵、秩父、青森中央の劇は「結果としての笑い」となりイヤミがなかった。青森中央の劇では更に人物の個性の違いによる色彩豊かな関係と会話が笑いを生み飽きなかった。 学園ものは六校。青森中央を除き五校の劇には程度の差はあるがどこかで甘さや安易さが顔を出した。現場に長い間いたので「そんなもんじゃない」とつい思ってしまう。例えば高松工芸高校では、殴り込んで来て生徒に暴力を振るう他校生を若い女先生が簡単に間接技で黙らす。戯画化された劇ならいざ知らずこの劇の様式はリアリズムである。友部高校の劇では男子不登校生が毎日自習している相談室で女子非行生を謹慎させ、先生は女生徒の事情聴取をし激しく言い合ったりする。異質な二人を閉じこめるという着想はこの劇の基盤となる重要な装置である。しかし劇とは言え僕にはこの女先生の無神経さはやりきれない。 戦争の狂気を迫力をもって舞台化した瓊浦高校、重い老人問題を 軽妙なタッチと哀感で味のあるエッセイ風に仕立てた江北高校、馬を通して戦争の時代を生きた家族の悲劇を能のような手法で結晶した伊達緑丘高校、家族の問題を地域住民との広い世界に持ち込み遊び感覚を生かし笑いと涙で盛り上げた磯島…高校の劇、抽象的な世界へ引き込み自由な表現の魅力を楽しませてくれた秩父農工科学の劇等々、高校演劇の枠を越え一般の人への鑑賞も意識した作劇は貴重だと思う。 『馬を洗って…』 童話からの脚色で無駄がなく練られた脚本である。草原や川など多くの場面を布を使って巧みに表現したが肝心な馬のイメージ化が不十分だった。洗練された舞台だったが人物の苦悩や葛藤も詩的に抽象化された印象を与えた。コロスが説明的な台詞でドラマを進めすぎたのも一因だと思う。 『老人ホーム ひまわり園』 エピソードを並列したような弱さはあるがよく老人を観察しコメディタッチのエッセイに仕上げていて味があった。老人の個性をよく演じ分け違和感がなかった。高校生が老人問題へ向ける眼差しの温かさが自然に伝わってきた。 『挿話 〜エピソード〜』 原住民を虐殺し敗戦を迎えた日本兵の苦悩をプロが書いた濃密な劇。真正面から取り組み熱演だった。装置に南洋の島の雰囲気がよく出ていた。軽いテンポも欲しかった。冒頭とラストで回想する時点と場所が不明確だったのは惜しまれる。しかし高校生がここまでの舞台を創ったことに感銘を受けた。 『報道センター123』 では新鮮な素材の切り口に感心した。テレビとビデオの枠と放送室を舞台に設置することで多様な表現や展開が可能になった。台詞や所作にテンポがあり心地よかった。洋食派、和食派の闘いで校内テレビを使って遊びすぎ後半の人権問題とテーマが分裂した。校内放送規定を厳しく設定し好き勝手な使用を制限すれば放送の重さが出てテーマも引き締まったと思う。 『トシドンの放課後』 狭い空間での三人の自然な演技には力みがなくリアリティがあった。あかねがトシドンの面を被り不登校の平野を叱責する山場では満身の思いをぶつけないと劇的な真実は生まれない。そうしたらこの劇は高質な愛の劇に異化する可能性さえあった。問題はあるがよく出来た脚本だと思う。 『Breakthrough 〜ガンバレ井上ひろし!〜』 地域の人がたくさん登場しその中で親子の心の交流を温かくユーモラスに描いた劇で、役者が遊びとスポーツ感覚で舞台を楽しみ観客も楽しく観た。多くの人物や場面をうまく処理していたが焦点が散漫になった面もる。 『HR ―ホームルーム―』 凄まじい学級崩壊の劇である。またかと思いながらここまでリアルで強烈に演じられると昇華し典型となる。明転の使い方が絶妙でクソリアリズムを戯画化し劇に高める効果があった。装置もよかった。ラストが安易な叙情に流れたのが惜しい。 『Making of『赤い日々の記憶』』 不登校生の手記等を淡々と交互に朗読した舞台に意表を衝かれた。脚本は複雑な仕組なのだが起承転結等の構造がないので感情抜きの朗読に埋没し立ち上がらなかった。あふれる内実が演劇の常識の型を破った…と受け止めたい。 『なにげ』 それぞれの場面が象徴的で印象に残る。装置の洞窟も暗示的。奇想天外な人物の登場も楽しく、みんな伸び伸びと演じ達者である。不登校生サッチャンの意識の世界を描いたのだと思うが、思わせぶりな抽象場面の連続で場面を貫く視点が掴めないので楽しく観ながらも消化不良が残った。 『ボクサー』 ボクシングの試合で始まる冒頭は迫力もテンポもあり豊かな展開を暗示して最高だった。やがて何故か普通になった。人物間のキャッチボールより観客への意識が先行していたからだろう。特に笑わせる台詞のとき目立った。劇の素材や構成もよかったがそれを生かし切れなかった。 『修学旅行』 よく描き分けられていたが脚本は普通に思えた。観客を巻き込み「あっという間に終わる」すばらしい劇に仕上がったのは演出と役者の力である。「演劇とは観客と俳優とが同時に共存する場で起こるもの=作品」(鈴木忠志)そのためには何が必要かを心得て劇が創られていると思った。 議論を経て知に傾き過ぎたが生徒講評委員会の速報活動に敬意を表したい。 (全国高演協顧問) |
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大久保 寛 |
第一回
生徒講評委員会を終えて 亀田 志織 |
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| 八戸での大会は、いずれも熱のこもった作品ばかりで、私自身いい勉強をさせてもらい、心浮き立つ感動の三日間であった。勝手気ままな感想ではあるが、簡単に振り返ってみたい。 『馬を洗って…』 加藤多一作の童話を脚色。軽快なテンポの音楽劇に仕立てた。スライド・布・コロスを使った集団演技など、いかにも伊達緑ケ丘らしいスタイルで見事さに目を奪われた。また一方で、動きの見事さは様式化された感じでリアルさを欠くことにもなり、ドラマが届いてこないきらいもある。原作が「わたし」の語りで成り立っているせいか、台詞が解説的になり、対話が少なくなりがちで、父・母・カツトシの葛藤がいま一つ伝わらなかったのが惜しまれる。 『老人ホーム ひまわり園』 高齢化社会の今、老人問題を取り上げた点大変よいと思う。コメディタッチで元気よくぐいぐい引っ張っていく劇で、全員に個性があって楽しく観させてもらったが、老人のかかえる問題がチラチラと出てはくるものの、どのエピソードも深まりがなく、劇全体を通してのメッセージが伝わってこなかった。「シカゴ」のナンバーや安来節は別として、BGMがすべて既成の曲であったのは安易に過ぎた。手垢のついた曲は観客それぞれに思い出があるので、演出の意図を離れて逆効果になることもある。 『挿話 〜エピソード〜』 戦後六十年という節目の年に日本の中で風化しつつある戦争についての劇を取り上げたのは大変意義のあることである。高低と奥行きのある重厚な装置と真面目でひたむきな演技は好感が持てた。倉田師団長のいささかオーバーな狂気の演技が気になった。実は戦争という狂気の状況から人間性を取り戻していくのであって、それが周囲には異常に映るというところを表現してほしかった。守山船長の戦後八年の日本での語りはヤペロ島で語っているような錯覚を受けるので、紗幕の前で語ったら劇の構図も分かり易かったのでは? 『報道センター123』 報道部の活動を通じて、報道アナウンサーにあこがれる部員達が誤報で簡単に人を傷つける恐ろしさや真の報道のあり方・権力との向き合い方などを鋭く問う作品。スタジオと同じ空間にモニター室が置かれていて生放送中の裏の感想が同時進行の形で聞かれるなどの趣向も面白く、力で抑え込まれがちな高校生の生の叫びも聞こえてきた。テンポのある台詞、スピーディな展開で若さあふれる台詞、エピソードを絞り込んで深めたらさらに面白くなると思われた。 『トシドンの放課後』 別室登校の男生徒と問題行動を起こした女生徒。性格も状況もまるで違う二人の生徒のぶつかり合いで成り立っているドラマで、構成もよく非常に感動的にできている台本である。間口を狭めた生徒相談室が閉ざされた空間をよく表現しており、三人の演技もよく個性を出していた。が、反省文の書き方・ケータイの打ち方・絵の描き方などの演技があまりにも雑。お面の完成に夢中の平野に進級できなかったことを告げる場面やお面をかぶって必死に説教をする場面などもっと丁寧にやればさらに感動的な舞台となると思われた。 『Breakthrough 〜ガンバレ井上ひろし!〜』 町内会の運動会までの会長はじめ町内会の人々の奮闘を描いた楽しいドラマ。不器用ながら必死に生きている親たちのその姿勢・努力を子供たちが分かっていくというほのぼのとしたドラマで、見終わった後に優しい気持ちになれる作品であった。競技の中身や事件など突飛な発想で笑いを誘っていたが、現実離れし過ぎていて軽さは否めなかった。せっかくのことに大阪弁でやったらさらに生き生きとしたドラマになったのでは? 『HR ―ホームルーム―』 統廃合寸前の園芸科の三年生、自信のなさからやる気の出せない生徒達と体調を壊した担任の代理でやってきた女教師との文字どおり体当たりのぶつかり合いを通して心が通じ合っていく過程を方言を使って生き生きと演じ感動的な舞台となった。装置も荒れた教室が丁寧に作られており、ブルーハーツのBGMを効果的に使った明転など、スムーズな流れを作る工夫も見事であった。ラストの緊迫感をもっと高め、記念撮影のシャッターで終えた方が、さらに感動的な幕切れになったのでは? 『Making of『赤い日々の記憶』』 不登校・ひきこもりの心情を綴った朗読劇を演じようとしている生徒達自身が不登校・ひきこもりの体験者で、さらにまたこの劇の作者・キャストもまたその体験者である。自分の最も切実な問題を取り上げることは、さまざまな葛藤があり、勇気の要るつらい作業であったろうと思う。まさに演劇の原点を見る思いがした。しかし、残念なことに報告だけがあって、舞台上で動きのぶつかり合いがない点、劇として非常に物足りない気がする。「読む」という形のために、より間接的になり、直接的に響いてこないきらいがあるのが非常にもったいないと思った。 『なにげ』 幻想的なランタンと洞窟風の装置が暗黒の世界へのつながりを象徴しているようで、次々に登場する三人単位の人物の演技も達者で、不条理の世界にぐんぐん引き込んでいく力を持った劇であった。最初と最後のシーンの引きこもりのサッチャンと中身で展開される世界とのつながりが今ひとつ分かりにくく、謎解きの感覚で観る客にはなにげに未消化な感じが残った。 『ボクサー』 まさかのKO負けでショックを受け、ボクシングをやめると言いつつ捨てることができず一人オセロをしながら悶々としている少年・権が再びリングに戻ろうと決意するまでの三日間を軽快なテンポで見せた感動のドラマ。リングを中心に置いた道場の装置が見事であった。権の思いを変える事件としては美術部員とのかかわりだけでは弱く、言葉で解決してしまったのが残念である。大敗してからの三か月にも重きを置いて、権・マネージャー・顧問の葛藤を中心にドラマを作ってほしかった。 『修学旅行』 女子高校生たちの沖縄の旅館での夜の一こまを切りとって見せ、爆笑の中にいろいろなメッセージがこめられている、すばらしい舞台であった。頭上で絶え間なく続く素振りは、米軍基地下に住む不気味さを思わせ、五枚の布団のやりとりはまさに領土争いであり、古今東西ゲームはいつ終わるとも知れない戦争の続く国々の名前がクローズアップされて、夜明けまでの遠さにため息の出る幕切れであった。平和教育の成果は表面的なもののように表現しつつも、実はこの劇こそが何よりの平和教育を感じさせて見事であった。 (元鹿児島県の高校演劇部顧問 ・全国高演協顧問) |
今回、青森で行われた全国大会で、初めて正式に生徒講評委員会が設けられました。二日間の事前研修、三日間の大会と四泊五日の活動を無事終えることができ、ほっとしています。 思い返せば、あっという間の五日間でした。北は北海道、南は佐賀県の全国各ブロックから集められた十八名が今大会の講評委員です。ほぼ全員が初対面でしたが、気がつくと「あれ?この人前に会った時あったっけ?」と思うくらい仲良くなっており、アットホームな雰囲気で委員会活動をすることができました。これもおそらく、「演劇」という共通の目的がなす技の一つだと思います。 生徒講評委員会の活動について説明します。一つの上演作品に対し、同じ高校生である私達が素直に感じたことを討論し、それを講評文としてまとめて発行するのが主な活動です。討論は幕間の少ない時間で行い、講評文は夜、宿舎に帰ってから担当グループが書きました。 活動目的は、講評文や合評会を通じて、多くの人に上演作品についてもっと楽しんでほしい、もっと深く考えてほしいということが第一です。上演高の伝えたいことを伝えられたら…そんな風に思いながら講評文を書きました。また、私たち自身がもっと楽しみたい、学びたいという高い意識を持って活動しました。一つ一つの上演作品に対して真直ぐに向き合い、多くの事を感じながら講評文を書き上げました。一つ一つの講評文に私達の魂がこもっています。 講評委員会の最大の魅力は、思いっきり演劇に対しての討論ができることだと思います。高校の演劇部に所属している私たちですが、作品の本質的なことに触れる機会は、普段はあまりありません。作品についてとことん自分の思いを語り、他の人の思いも直接感じることができる講評委員会の活動は、とても刺激的で充実した時間でした。 最終日に行われた生徒合評会には、多くの方に足を運んでいただき、本当に嬉しく思います。上演校の生の声を聞き、議論を交わすことで、作品に対する理解がさらに深まったように思います。また、全国の演劇ファンの方々の熱い意見を聴くことができ、とても充実した会になったと感じます。しかし、一つだけ残念なことがあります。それは、最終日の講評文作成が間に合わず、合評会に出席できなかった講評委員がいることです。皆で頑張ってきた活動の集大成の意味でもある会だったので、全員が出席できなかったのは残念で仕方ありません。 今回の生徒講評委員会の活動を通じ、演劇の奥の深さや楽しさを改めて学びました。さらに、なぜ今自分は演劇をやっているのか、という根本的な問題まで考えさせられました。これは、講評委員全員に言えることだと思います。自分はなぜ今、演劇という手段をとっているのか、改めて自分と向き合えた五日間でした。 このような機会を与えていただき、素晴らしい仲間と出会えたこと、皆でやり遂げることの感動を味わうことができたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。最後に皆で流した涙は忘れません。本当にありがとうございました。 (生徒講評委員会委員長 青森県立三本木高校3年) |
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