分 科 会
第一分科会
ワークショップ-1

こえとからだを使って遊ぶ

  講師 鴻上 尚史 

第一分科会
ワークショップ-2

身体・想い・氣

  講師 オーハシ・ヨースケ 

▼13時20分

 八戸市公会堂。舞台に向かう廊下で。鴻上先生が訊いてくる。

 「無理して集めてはいないでしょうね(笑)」

 「そんなことはありません」

 「ほんとうですか」 

 「ほんとうです」

 「何人くらいですか」

 「今のところ120人くらいと聞いていますが」 

 外は炎天下の夏空。冷房がよく効いたなか、私たちは足早に舞台に向かった。

▼13時25分

 緞帳を上げてもらう。客席にはジャージ姿の参加者たちがそろっている。私は指示に従って参加者たちに舞台に上がってくるように呼びかける。ワークショップが始まるまでの5分間は柔軟体操でからだをほぐしてもらう。

▼13時30分

 いよいよワークショップの始まりである。参加者はジャージ着用を義務付けられており、ワークショップに参加するためには当然のことであるが、このあとのハードな運動量を経験してみればジャージでさえも着ているだけで暑苦しいものであっただろう。

 舞台に腰をおろした参加者に向かって、先生が尋ねる。

 「きょうやってほしいことはどういうことかな」

すぐさま手があがる。

 「どうしたら目で訴える力を強くできるんですか」

 「大きくとどく声や発散しない声を出すにはどうすればいいんでしょうか」

 「滑舌をよくする方法は」

この3つが主な質問であった。

 この時点ではこれらの質問に直接答えないで、準備運動に入った。全員をひとつの輪にならせる。隣同士はあくまでも知らない人、という条件で。番号をかけさせる。最後の人は101であった。次にグループ作りをする。今度は横一列で一番右が1月1日生まれ、一番左が12月31日生まれになるようにと要求する。101人の参加者たちは右往左往。両端から決めていったらどうだ、と先生。しかしこれもうまくいかない。全国から集まった精鋭ぞろいのはずなのにこのていたらくか、と先生はちょっぴり挑発。

 私見だが、おそらくこれは見知らぬどうしが最初にコミュニケーションをとるための導入ではないのか。(間違っていたらごめんなさい) 

 次は鬼ごっこ。鬼は声を出して相手をつかまえていく。増殖しながら、大きくなったら分裂していく。

 歌をうたいながらつかまえていく。参加者たちの汗がほとばしり、もうこの時点で息切れする者が続出であった。これを見かねて先生は休憩を宣言。販売機で飲み物を買って来るようにと言う。

 まだ始まって10分程度しか経過していないのにもう休憩。それほどハードな出だしであった。

 飲み物を買わせにいったのは、運動によって汗をかいたからだけではなかった。

 「発声のときには水分を補充しながら、自分ののどの状態を把握することです。」

すなわち次は発声について。

▼13時50分

 参加者たち再び舞台に腰をおろし、今度は講義の時間。先生が質問する。

 「正しい発声とは何か」

さまざまな答えがでてくるが、総じてよく通る声というのが多かった。

◎結論。正しい発声とは自分の感情やイメージをきちんと表現できる声。

 大仰な発声で漫才をやってみてもしょうがないだろうと、ある大物俳優のまねをして皆を笑わせる。

 次に人間のからだの代表的な共鳴の場所を質問する。

 まず、?鼻、つぎに、?口唇、そして、?頭、?のど、?胸の5つであった。この間先生はそれぞれの共鳴の場所を使って実際に発声をしてみる。そして参加者たちにもやってもらう。これがなかなか難しいようだ。特に胸の場合は。力を入れたり抜いたりの練習をしたが、抜くほうが大変なようだった。

◎結論。理想的な発声とは、顔全体に共鳴させるようイメージする発声。

▼14時15分

 引き続き発声について。今度は、魅力的な声にするには、また、声は何を変えると響き方が変わるか、がテーマであった。ここでまた質問。声の要素を5つあげよ。?大きさ。これは簡単。?高低。これも容易。?速さ。問題なし。あとの2つは。手が多くあがるがなかなか正解にはたどりつかない。誰かが言った。?間。正解。そして最後は。何人かが手をあげて答えを言う。しかし、正解した者はひとりもいなかった。正解は、?音色、音質。

▼14時35分

 現実の世界のどんな人、どんな職業の人がどんな音色か、をいろいろやってみる。

◎結論。この5つの声の要素の変化に富んでいる人は、顔の表情も豊かである。この逆はない。

 この5つの声の要素を使って、声で遊ぶ。男女がそれぞれペアになる。背中合わせで座って、たとえば砂浜で語り合う、という想定。ただし日本語ではない。ムチャクチャ語で、という指示。全員がペアになって始める。ある程度の時間がたつと今度は日本語でという指示が出る。ジェスチャーを交えてという指示も出る。そんなこと言ってたの、という驚きの声もあがる。

◎結論。ことばを渡すということは、きもちを渡すということ。

 時間が迫ってきた。これで最後。

 10人くらいを3人ずつ横に並べ、その背後から誰かに目力(めじから)で指示する。指示されたと思った人はそのように動く。背中を向けた人に対する「目の力」を使っての呼びかけである。そばで見ていてもかなりむずかしいことをやってるな、と思った。

 ここで15時になる。まだまだ続行したいという雰囲気であったが、残念ながら時間ぎれ。

 参加者の皆さん、お疲れさまでした。そして講師の鴻上尚史先生、本当にありがとうございました。充実の90分間でした。

文責 青森県立八戸高校

   本多 明義

 七十九名の参加者達が、緊張した面持ちで扉を見つめていた。オーハシ先生は勢いよくドアを開け、何の躊躇もなく、満面の笑みで参加者と握手を始めた。一人一人に丁寧な挨拶と握手をしてくださったお陰で、会場全体がとても和やかな空気に包まれた。

 心が解放された後には、身体の解放が待っていた。靴を脱ぎ裸足になるよう指示されたのだ。七月末の真夏の熱気にさらされていた身体に、リハーサル室の冷たい床はあまりにも心地よかった。自然とみんなの顔が笑顔になる。

 そこですかさず、講習会のテーマが発表された。テーマは「自分と相手の関係・コミュニケーションの大切さ」だ。二人一組になり、向かい合って手を取り合う。目を見ながら、相手が何回手を握るかをイメージする。そしてそのイメージ通りにお互いの手を握り合う。初対面同士の二人であっても、握り合う回数が同じになる組が多かった。中には抱き合って喜ぶ組もいた。

 このお互いが手を取り合うという距離感が、個人と個人が何かをする時に一番適した距離であると先生はおっしゃっていた。顔と顔がくっつくほど近づくのは息苦しく、手が離れてしまうほど遠くなると他人行儀になってしまう。なぜなら、一歩踏み込むことで心の中に入ってこられたような気分になり、逆に離れると社会的な関係になってしまうからだ。このことは舞台上でも言えることで、舞台が広いからといって二人の距離を離してしまうと不自然になると教えてくださった。

 次ぎに、リズムに乗って目の動きで相手をリードしながら、お互いが移動するというレッスンをした。人は身体で九割のコミュニケーションを取っている。相手を感じながら行動し、相手を受け入れる力が必要になる。相手を受け入れるためには、まず自分の存在を認めることが大切になる。自分を認めたならば、相手も同じように認めればいいのだ。まず目を見る。そして相手を観察し空気を読む。「身体・想い・氣」が一つになって、初めてお互いのコミュニケーションが成立する。

 その後のレッスンも、相手の力を受けるというものが多かった。その中の一つに、架空の手裏剣を用いたものがあった。一人を中心に据え、その人を囲むように円を作る。その際、中心に背を向けるようにして立つ。中心の一人は、誰かの背中に架空の手裏剣を投げる。周囲の人たちは、誰に投げられたかは分からない。しかし、投げる相手の手の動きや声、気を感じて、自分に投げられたことを感じ取り、身体を反応させるのである。「身体・想い・氣」を体感できるレッスンであった。

 また、全員の肩を笑いながら叩くというレッスンもあった。こうすることで二人の間に通じ合う氣ができるそうだ。心の中で笑うことをイメージして接すると、お互いに通じ合う場ができて、和やかな雰囲気を作ることができる。会場は参加者達の大きな笑い声で満たされていた。

 最後のレッスンは、新聞紙を用いたものだった。新聞紙で棒を作り、二人の間に挟んで落とさないようにして歩く。棒が、天井から床まで繋がっている柱であるとイメージして動こうという先生のアドバイスを受け、参加者達は悪戦苦闘した。しかしなかなか上手くはいかない。どうしたら上手くいくのかを話し合ったところ「互いの目と目を合わせて、新聞紙を挟む距離に気をつけ、相手の氣を感じながら動く」という意見が出た。まさしく「身体・想い・氣」である。先生は相手を感じ、相手を生かし、自分も生かして動くことが大切だと教えてくださった。その後は大チャンバラ大会が繰り広げられた。皆楽しそうに生き生きと活動していた。

 全てのレッスンが終わり、先生が皆を一ヵ所に集めた。人がいない壁の方を向き、そこに沢山の観客がいて自分達に拍手を送っているということをイメージさせた。そしてその観客席に向かって、全員で「ありがとう。」と答え拍手を送った。皆の想いがこもった温かな声は、リハーサル室に大きく響き渡った。力を受けることが上手だと、自分から発することも上手にできるとおっしゃっていた先生のレッスンの成果が、皆の声に終結していた。

 レッスン後、リハーサル室から出てきた参加者達の表情は、見違えるように明るくなり、新しい笑顔が芽生えていた。オーハシ先生から、自分と相手を信じるエネルギーをもらった講習会であった。

文責 青森県立三沢高等学校

   服部 円佳

第二分科会

舞 台 美 術

  講師 内 山  勉 


第三分科会

部活動としての高校演劇

  講師 大久保 寛
   洲浜 昌三
   溝口  勲

 演劇は、視覚・聴覚の二つから成り立っている。これを、一つ一つつくる仕事が、舞台技術のあり方である。そのために、次の二つのことが問題となる。

1 視覚的な意味で責任をとる

2 時間を伴った4次元のものであることを自覚する

 これらの点から各校の演劇に関しての感想を述べる

1.北海道伊達緑丘高等学校

・はじまりの時、黙って緞帳が上がるのを待っていることは、観る側にとって苦しい

・木漏れ日のような照明が美しく効果的であった

・観る側の視線を自然にセンターにもっていかせる布の活用がとてもよかった

・無対象のものを、あたかもいるもののように想像させなければならないところは、非常にむずかしい

2.東京都立江北高等学校

・全体的にたのしいできあがりである

・緞帳が、上がりきるまで動きがないので改善する必要がある

・老人の動きを、そでまでの距離で歩くのにしたのは、長く感じさせる

・暗転と明転のどちらを選ぶかは、大切なポイントである

・衣装が非常に、キャラクターをだしていて効果的であった

3.瓊浦高等学校

・シンプルなものも必要な時もあるが、今回は、もっとも丁寧に舞台装置をつくっており、それが効果的であった

・台の高低をうまく利用している

・衣装の工夫が必要(ブーツ・上着など)

4.山口県立華陵高等学校

・同じ制服姿であるにも関わらず、髪型の違いでうまく個性をあらわしている

・明かりのあたらないところは、無ととらえられるので、そこから存在感をだすのは無理がある(照明方法の工夫が必要)

・役者が、重なってしまい残念なところもあったが、同じ視界でみられるようにうまく使っている

5.茨城県立友部高等学校

・三間半の間口に舞台を設定していることが効果的である

・入り口を正面の下手に持ってきたことも効果があった

・とてもテンポがよかった

6.大阪府立磯島・枚方西・枚方なぎさ高等学校

・間口が広いので、役者の動線を、うまく生かすことは難しい

・何を見せたいのかわからない

・近くにいる人、遠くにいる人への話し方の工夫が大切

7.香川県立高松工芸高等学校

・間口の利用の工夫が必要(今回は狭めたほうが有効だったかも)

・視覚的に訴えるものがうまくいっていた

・台詞でもぐもぐしたところが、今回は効果的であった

8.愛知県立刈谷東高等学校

・一人だけがすわっていたのが効果的であった

・照明が、目に陰をつくっていた。役者の目をみせるように気をつける

9.埼玉県立秩父農工科学高等学校

・何故、3にこだわるのか、理解しづらい

・エピソードが多いが視覚的な部分の説明が不足で伝えたいものがわからない

・少し抽象的すぎる

10.山形県立東根工業高等学校

・セットが非常に丁寧である

・緞帳が上がってすぐのアナウンスが入っているところがあまりにも暗い

・アナウンサーにもライトがほしい

・音楽があり、リズムがよい

11.青森県立青森中央高等学校

・修学旅行先の沖縄をイメージさせるものがほしい

・マットの位直が、移動を考えた時、上手の方が効果的なのではないか

・テンポの取り方が、非常に上手である

・立ち位置で人間関係や心の変化をうまくだしており、視覚性からひき出している

 以上のことから、『目立つ』という点から考えると次のような方法があり、そのためにセットが必要になるし、その組み合わせ(距離〉が大切になる

1 前と奥では、奥が目立つ

2 大きいものより、小さくても動くものが目立つ

3 まわりと違う動きが目立つ

4 テンポをくずす人が目立つ

5 照明によって位置に関係なく、そこを目立たせることができる

※参加人数は102人

          以上

文責 青森県立八戸南高校

      寅 谷  正

*実践報告 1 大久保 寛先生

 都市部の学校と田舎の学校、あるいは進学校と実業校の違い等によっても活動の在り方は違ってくるのではないか。また、生徒数の減少に伴う部員減や学校の統廃合などによる加盟校そのものの減少も大きな問題である。例えば、今年友部高校が上演した『トシドンの放課後』をオリジナルで上演した鹿児島の宮之城高校も廃校になることが決まった。実績のある学校といえども安心はしていられない。高校演劇を取り巻く環境はこれからも更に悪化していくことが懸念される。

 しかし、不可能な状況を工夫次第で可能にしてしまうのもまた演劇である。離島にある喜界高校に赴任した時、部員ゼロ・部費ゼロからのスタートだったが、国語の時間に生徒を集め、授業で発表会を開くなどして演劇のおもしろさを広めることから始めた。結果として『小さな島の物語』で全国大会に出場するまでになった。どんな状況でも演劇は可能だという好例であろう。

 また、最近、部員がいないから一人芝居をやりたいという相談をよく受ける。そもそも「一人でやるから面白い」のが『一人芝居』なのであって、「役者が一人しかいないからやる」のが『一人芝居』なのではない。同じように、今いる部員の頭数に合わせて脚本を選ぶのではなく、部員の持ち味を最大限生かす方法を考えることが大事。当て書きでかまわないから、「対立」「場」「複眼的視点」に気を付けながら、部員一人一人を生かす脚本を自分たちで作ってみてはどうか。演劇部には運動部と違って『補欠』というものはない。部員の誰一人が欠けても舞台は成り立たない。演劇ほど教育的な活動は他にないと私は思っている。

*実践報告 2 洲浜 昌三先生

 演劇部において顧問の問題は大きな問題だ。意欲的だった顧問の退職や転勤を機に活動が停滞してしまったという例も多く耳にしている。後を引き継ぐ顧問にしてみても大変な話で、演劇を専門にやってきた方にそのままバトンタッチできる幸運に

恵まれることなどほとんどありえないことである。

 こういう状況下で活動を維持していくためには、部員・教師ともに工夫が必要だ。地域の優れた人材や意欲的な卒業生などを巻き込んで活動の輪を広げてみるのもその一つなのではないか。 

 実際にあった例だが、中央で活躍していた有名な役者さんが地元に帰り、地元高校の演劇部に何かお手伝いできないかとわざわざ申し出たことがあったそうだ。私ならすぐにでも飛び付くところだが、その学校の顧問は意欲的ではなく、せっかくのチャンスも無になってしまったらしい。こういうチャンスは滅多にないが、地元の作家や劇団等との交流などが活動を活性化させる場合は大いにあり得る。どんどん活用すればいいと思う。

 また、『伝統校』と呼ばれているところは、一般的な学校と比べて年間の講演回数が多い。大会での上演のみならず、小さな学内公演なども大切にしているからだが、実は演劇部が学内で認められるためにはこういった活動がとても有効だ。学校全体を巻き込んでいくことで理解者が増え、協力体制が整う。陰で支えてくれている人を大切にする気持ちは必ず舞台に表れる。いわゆる『伝統校』と呼ばれる学校には、こういった良い意味での連鎖反応が出来上がっている場合が多い。

*実践報告 3  溝口 勲先生

 まず初めに、先ほど審査員の鴻上先生が「下北沢の若者に高校演劇を見せてやりたいなあ」とおっしゃっていたのを、是非みなさんにも伝えておきたい。これは高校演劇に対する最高の褒め言葉と言っていい。高校生がやっていることは実はとてもすごいこと。自分たちのしていることに、もっともっと自信を持って欲しい!

 私は演劇に関してプロを育てようと思ったことは一度もない。脚本はできれば生徒に書かせたい、というか、脚本を書ける生徒を育てたいといつも思ってきた。「書く」作業は生徒を育てる。

 また、生徒と顧問との間に信頼関係があれば、作品を作り上げる過程においてぶつかり合うことはかまわないと思っている。むしろ、生徒の本気に対しては、私は自分の内面までさらけ出して本音で生徒と向かい合った。昨年、幸運にも「チキンカレー」という作品で全国大会に出場することができたが、ある意味、この作品も生徒と顧問とのこうしたバトルの中から出来上がったものといっていい。

 顧問と生徒との人間関係でいえば、顧問の年齢が生徒の年齢と離れてくるに従い、どうしても感性の違いを自覚するようになった。例えば、生徒の書いた脚本には感覚的なギャグを多用するものが見受けられるが笑えないことの方が多い。芝居に笑いは必要だが、ギャグの笑いは要らないのではないか?身近にいる人を注意深く観察してみるといい。笑いに限らず、身近な人を観察して得られたことは、演出をする際にもとても参考になることが多い。

*質疑応答

○溝口先生の仰られた『自然な笑い』とはどのような笑いのことか。

  (青森県三本木高 生徒)

◎普段、何気なくしゃべっていることの中にこそおもしろいことがある。企まずに醸し出される自然な笑いこそが本物の笑い。芝居ではこういう笑いを大切にしたい。

  (溝 口)

○大久保先生のお話の中にあった鹿児島県の『冬季大会』『夏季大会』とはどのようなものか。

  (司会者)

◎『冬季大会』は二月に実施。生徒の創作に限り、上演時間は二十五分以内。大道具は使わず、サスの位置を共通にしたり、リハを行わないなどで時間を短縮。幕間講評は顧問全員が当たり、生徒審査委員会がすべての学校に賞を出す。最近では九州の他県でも同じような試みをしているところもある。

 『夏季大会』の実態は講習会。役者のオーディションから始め、二日かけて一本の芝居を作る。併せて音響・照明・脚本の講習会も行い、合評会を行う。

  (大久保)

○自分はよく「思い切りが足りない」といわれるが、思い切ってやるためには?

  (長崎瓊浦高 生徒)

◎自分を捨てることも大事だが、客観的に自分を見ることも大事なのでは。

  (高松工芸高 生徒)

○生徒だけで舞台を作ると、どうしても先輩の考えが中心となり、自分の意見をきいてもらえないのだが…。

  (青森某高 生徒)

◎『部日誌』を回覧してみてはどうか。顧問を巻き込んだ雰囲気作りから始めては?

  (某高 顧問)

*その他質問多数に付き省略

文責 青森県立六戸高校

     川口 正人


第四分科会

生徒合評会
講評委員会の可能性を感じて

  五十嵐 隆 

 第四分科会「生徒合評会」は、大会最終日の七月三十一日(日)、八戸商工会館3階ホールを会場に行われました。全国大会での生徒合評会は一昨年の福井・鯖江大会で試行されていますが、正式開催としては今回の八戸大会が初めてということになります。

 第四分科会は生徒合評会の状況を報告するだけでは、その活動を理解していただくには不十分で

あるようにも思われます。というのは生徒合評会は大会期間中に行われた「生徒講評委員会の活動全体」の、あくまで「結果の一つ」に過ぎないからです。それらを御理解いただくには、ここであらためて今回の全国大会での生徒講評委員会の活動を説明する必要があるでしょう。

 生徒講評委員会の目的は、講評委員となった生徒自身が上演作品を受けとめ、考え、議論し、それを講評文として発表する。そのことにより、より多くの方々と議論を深め、あるいは響き合わせていくことにあります。今回、全国各ブロックから集まった生徒講評委員は十八名。三人一組で六つのチームを作り、それぞれのチームが上演作品2作品についての講評文作成の責任者となる、という方式で行われました。ただし「全員が全作品を見る」、「全員で全ての作品をディスカッションする」ということを大前提としています。これは「様々な意見・考え方と出会い、議論することこそが生徒講評委員会の活動で最も大切なことである」という考え方が根底にあります。「講評文は、あくまで講評委員全員のディスカッションの結果であって、講評文の作成が講評委員会の最終目的ではない」、という考え方に由来するものです。

 講評委員は、全上演作品を鑑賞します。休憩時間毎に別室に移動して作品についての意見・感想を出し合い、その日の全ての上演作品について宿泊先に戻った後に全員でもう一度議論。それらのディスカッションを踏まえて担当チームが千二百字前後の講評文を作成、翌日に会場ホワイエで「生徒講評速報」として発行するという段取りでした。


 ここで全ての講評速報、そして生徒講評委員長による「全体講評」を、本当に要約だけですが紹介します。

「北海道伊達緑丘高等学校」

 布の使い方が印象的な舞台。一人の人間と一頭の馬の死を重ね合わせることによって戦時中の弱者の立場が表現されていた。また同時に時代を超えた「家族の絆」の大切さを考えさせられた。

「東京都立江北高等学校」

 登場人物の誰もが主役となりうる作品であり、また「状況の全てを説明しない演出」が観客に様々な想像の余地を与えた。しっかりと造形されたキャラクターと相まって、観客席をあたたかな空気に包み込んだ舞台だった。

「長崎県瓊浦高等学校」

 戦争の「加害者」という視点からの物語が強く印象に残る。戦後六十年の今日、「高校生が戦争をテーマに演劇を作る」ことの意味を考えさせられた。

「山口県立華陵高等学校」

 一生懸命な高校生達の描写に素直に共感できた。「生徒からの視点」だけでなく「教師からの視点」にもリアリティが感じられた。一筋の希望を感じさせつつ全ては説明しないラストが印象的であった。

「茨城県立友部高等学校」

 物語の展開に伴う登場人物達の心情の変化が巧みに表現されていた舞台。不登校の主人公の台詞が、観客の心に鋭く突き刺さった。ある女子の講評委員の「男友達が欲しくなった」という発言に、委員みんなが大きくうなずいていた。

「大阪府立磯島・枚方西・枚方なぎさ高等学校」

 コミカルで、生き生きとした作品。遊び心に溢れ、楽しいだけでなく全ての登場人物がしっかり描かれており、あり得ないであろう設定を、説得力を持って描いていた。

「香川県立高松工芸高等学校」

 リアリティ溢れる舞台装置、印象的な場面転換、BGMの使い方等、高い演出技術が感じられた舞

台。ややデフォルメされて描かれる登場人物達のドラマには、私達の抱える「本音」が表現されており、引き込まれる舞台だった。

「愛知県立刈谷東高等学校」

 彼等の抱える「痛み」に、言葉すら失ってしまうような舞台だった。まさに高校演劇でしか出逢えないような作品。「演劇とは何か?」、「自分達はなぜ高校演劇の現場にいるのか?」という根元的な問いを深く考えさせられた。

「埼玉県立秩父農工科学高等学校」

幻想的な幕開きが観客席に感嘆の声をあげさせた作品。散りばめられた童話の断片や謎が謎を呼ぶストーリー展開が、見終わった私達に「もう一度この作品を見てみたい」と思わせた。

「山形県立東根工業高等学校」

 力作の舞台装置が印象に残る。「成長」をテーマとし、「自分に正直に、一心不乱に目標に向かっていくことが大切」というメッセージ性の非常に強い作品だった。

「青森県立青森中央高等学校」

 身近な風景を題材としながら、実は登場人物たちに現在の国際情勢が見立てられているという裏設定に唸らされた。俳優の個性を生かした笑いを含め、計算され尽くされた作劇技術が見事だった。

「全体講評」

 学校ごとに個性のある様々な演劇を見ることが出来た大会だった。戦争を題材とした作品がいくつかあったが、戦争を知らない世代の自分達が戦争を題材として扱うことは、現在の自分達を考えることにも繋がるだろう。演劇の手法・方法論だけでなく、「なぜ私たちは高校演劇という場にいるのか」ということを考えさせられた三日間だった。

 これらの生徒講評速報は実際に会場で手に取られた方もいらっしゃると思います。第四分科会では、これら全上演作品の講評速報を資料に、それぞれの担当チームが講評速報に書ききれなかった部分も含めて上演順に担当作品についての生徒講評を発表していきました。また、分科会会場には全ての上演校から数名の部員が参加し、作品についての質疑応答に参加していただきました。単なる型通りの感想やコメントだけに終始することなく作品についての理解を広め、あるいは深めて、さらには上演作品について予想外の楽しい裏話が聞けたのは思わぬ収穫の一つでした。

 ただし、今後の生徒合評会の在り方について幾つかの課題が浮かび上がってきたのもまた事実です。何よりもまず「生徒講評委員会の活動」、あるいは「生徒合評会」というものについてのコンセンサスが、必ずしも生徒・教員を含めた高校演劇関係者全体に形成されているとは言えない、ということが最大の課題です。合評会においてこの問題点は非常に顕著なカタチで表れます。端的に言ってしまえば、講評委員以外の分科会参加者が、当初この生徒合評会という場で「生徒講評を聴く」以外に何をしたらいいのか?がよく分からなかった、ということです。合評会の前半で、参加者の中から自由闊達な意見が出にくかったのは大きな反省点の一つでしょう。あるいはこれは高校演劇において「上演作品について思ったこと、感じたことを言い合ったり、議論しあったりしてもいいのだ」という雰囲気が必ずしも形成されているとは言い難い、ということなのかもしれません。全国には講評委員会活動が行われているブロックや地区もあるものの、まだまだ「講評」については大会の最後に「審査員講評を一方的に聴く」という構図も多く、またその構図に高校演劇関係者が慣れすぎている可能性を、私たちはいま一度考える必要があるのかもしれません(だからこそ尚のこと、「生徒講評委員会」の活動と可能性には大きな意義があるのですが)。いったい「生徒合評会」なる分科会では何が行われるのか?この点については大会期間中、あるいはその前段階から、担当者・主催者側からより積極的なアピールが必要であるように思われます。今回の生徒合評会については、「会場が暖まってきた」、「ディスカッションの空気が醸造されてきた」のは後半からである感は否めなく、計画・事前指導を含め、合評会の在り方自体については今後なお一層の検討は当然必要になってくると思います。

 また、鯖江大会では審査員講評の時に行われた講評委員長による全体講評は、今回は全国高演協理事会からの要望により、合評会で行わることになりました。全体講評を合評会で発表すること自体に異議はありません。ただ、非常に「勿体ない」のです。「高校生がどのように上演作品を受けとめたのか」という事をより多くの方々に知っていただく意味でも、講評委員長による「全体講評の発表の場のあり方」については、今後の全国大会において検討していただきたい点の一つです。

 いずれにせよ、これらの課題について最大の対策は、何よりも生徒講評委員会活動の継続そのものにあります。理解とコンセンサスを得るには、はっきり言えば「実際に合評会に足を運んでいただき、生徒達の活動の成果を見て貰うこと」が一番です。生徒講評委員会、そして生徒合評会の意義や活動のあり方については全国各ブロック・各県でかなりの温度差があり、それに携わるスタッフの考え方も様々。何がベストであるのかを現段階で述べるのは早計であり、おそらくは今後も多くの試行錯誤を経ていくものではあるでしょう。各ブロックや開催県ごとの事情もあれば、金の問題、人員配置の問題もあります。それでも、実際に講評委員会活動に参加した生徒達が目の前でぐんぐん成長し、目の輝きが変わっていく姿を目の当たりにするならば、この生徒講評委員会という活動に、はかり知れないほどの可能性を感じずにはいられません。


 最後に、合評会では眼にする事ではありませんでしたが、担当者としてこの生徒講評委員会という活動の意義を大きく感じたエピソードを紹介したいと思います。

 ある上演校の観劇後、別室に戻った講評委員たちは不登校を題材としたその作品を語る言葉を必死に探していました。議論はなかなか噛み合わず、彼等はその作品をどのように受けとめたらいいのかについて大きく戸惑っていました。そしてその後、その上演校の「上演までの裏事情」を耳にしたのです。詳細についてここで述べることは出来ませんが、その事情は講評委員たちの言葉を失わせるほど衝撃的なものでした。それは、作劇の技術や脚本のテクニックといった「技巧」のレベルの話ではありませんでした。それらとは全く異なる位相の、「なぜ、それでも自分達は高校演劇という場所に立っているのか」という問題だったのです。それを考えることは、「なぜ、自分達は今この場にいるのか。この場に生きているのか」という自分の存在の根拠に係わるものでした。「答えの出ない問い」に彼等は必死に向き合い、受けとめ、考えようと苦闘していました。「技巧的な見地から作品を講評する」という次元を超え、まさに高校生自身が全人格的に作品に向き合おうとしていた場面に私達は立ち会ったのかもしれません。「演劇とはなにか」という問いに答えが出ないように、講評委員会のあり方、合評会のあり方もまたベストというものはあり得ないのかもしれませんし、今回の八戸大会自体もまた今後の叩き台となっていくものなのでしょう。それでも、大きな、本当に大きな可能性に満ちたこの生徒講評委員会という活動に関わることが出来たことを幸運であったと思わずにはいられません。準備から始まって大会最終日の分科会にたどりつくまで、怒濤の、そして本当に楽しい日々でした。全国から集まり、そして帰っていった十八人の仲間達、そして出会った全ての皆さんにこの場を借りて感謝申し上げ、およそ報告にもならない報告を終えたいと思います。 

(八戸商業高校)

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