都道府県だより
群 馬 県

来年の夏、
桐生でお待ちしております

岩野 守良

 群馬県高校演劇部会は加盟校数が45校と、大規模都県が多い関東ブロックの中では弱小グループに属しています。また、近年は部員が数名しかおらず、部の存続が危ぶまれる演劇部もかなり増えてきており、こうした流れをいかに食い止めるか、これからが正念場となっています。部会活動も、コンクール以外は年1回の技術講習会と交流会があるだけで、近県と較べても決して活発とはいえません。

 そんな中、平成20年に全国大会がやってくることになったので、それはもう大騒ぎです。

「ぜひ桐生におこしください」

 全国大会の行われる桐生市は群馬の東端に位置しています。JRで「桐生」の一つ向こうの駅はもう栃木県です。ちなみに一つ手前の駅「岩宿」は、相沢忠洋さんが打製石器を発見し、日本にも旧石器時代が存在したことを証明したあの「岩宿遺跡」のある所です。

 ところで、中毛地区(上毛国の中央という意味。ちなみに桐生は東毛地区です)で生まれ育った私にとって、教師として初めて赴任するまで、桐生は同じ県内でもなんとなく「異境の街」といった感じでした。子どもの頃に桐生が岡公園の遊園地や動物園に遊びに来て以来、ほとんど足を踏み入れたことがなかったのです。全国に「小京都」を自任する町は多いですが、群馬では桐生がそれにあたります。三方を山で囲まれ、東に桐生川、西に渡良瀬川の流れる山紫水明の地は、周囲と隔絶された地理的要因もあってか、独立性の強い文化を育んできました。そんな土地柄もなんとなく外部の人間にとってはとっつきにくかったのかもしれません。女子生徒が「〜でしょ」というところを「〜だがん」と言うのにも驚きました。例えば「そうでしょ?」と相づちを求めるところを「そうだがん?」と言ってくるのです。そんなに広くない県内なのに私と違った言語をしゃべる人種がいる。若かった当時の私にとって、これはけっこうショッキングな経験でした。もちろんそんなことにはすぐ慣れ、お気に入りの街としてその後16年間もここでお世話になることになるのですが ・ ・ ・。

 すいません。個人的な想い出に浸ってしまいました。話を桐生の紹介に戻します。

全国大会の行われる桐生市市民文化会館の建物は、ビルの上にUFOが不時着したような形をしています。もちろん大切な血税を使って市民会館の上にUFOを乗っけるような暴挙を市民が許すはずがありません。それは、マユ玉をモチーフとした造形なのです。なので、ホールの名前もシルクホールといいます。そう、桐生は絹織物の街なのです。かつては「西の西陣、東の桐生」と言われ、織都として繁栄を誇りました。残念ながら織物産業にかつての勢いはもうありませんが、街中には今でも織物工場のノコギリ屋根がそこここに残っていて、織物の町としての名残りを垣間見ることができます。

 また、こうした伝統から、桐生は活気ある市民の力に支えられた文化の町でもあります。多くの文化人がこの地を訪れましたし、また、多くの文化人をこの地は輩出してきました。私たちがこんな群馬の東のはずれにある(桐生ゴメン)街を全国大会の開催地としたのも、桐生という街の持つ文化的潜在力に大いに期待したからなのです。

「群馬県民は義理人情に厚いです」

 古い話で高校生の皆さんにはすいませんが、年配の方ならご存じのTVドラマ「木枯らし紋次郎」のおなじみのせりふは「あっしにはかかわりあいのねえことでござんす」でした。彼の出身地上州新田郡三日月村は桐生の隣村です。新国劇で有名な国定忠治(「岩宿」の一つ手前の駅の出身です)とちがい、紋次郎は笹沢佐保によるフィクションですが、当時、何となく上州人は薄情で冷たい、といったイメージを持たれた視聴者も多かったと思います。

 しかし、ご心配はいりません。群馬県民は義理人情に厚い県民です。紋次郎だって、口ではそう言っていながら、本当は優しい心の持ち主なのです。でなければ、あんなにいろいろな事件に首を突っ込むはずがありません。

 そして現在、群馬県では来県していただく出場校の皆さんや観客のみなさんを温かくお迎えし、そして心おきなく芝居に打ち込めるよう、部員・顧問が一丸となって準備を進めているところです。

 来年の8月8〜10日、ぜひ、桐生へお越し下さい。

(群馬県高等学校
教育研究会 演劇部会
 前事務局長)

岡 山 県

岡山高演協だより

橋本 文彦

 まもなく平成19年度を迎える。あれから18年である。岡山県(倉敷市)での全国大会は平成元年の13総文だから、計算がラクだ。当時の私は教員3年目の27歳で、総文祭の実行委員会事務局勤め、総合開会式と演劇部門を担当していた。だから現在45歳。この間、専ら舞台の裏方を歩んできたが、昨年度から県事務局が回ってきてしまった。全国大会当時の県事務局が現理事長。当時の理事長は今年度末で御退職。当時の若手顧問が私あたりの年齢にうじゃうじゃ居る。あっと云う間だったな…と云うのが率直な感想。そんなにトシをとってしまったのかな? とも思う。若手は中堅となり、そろそろ巷の「07年問題」ならぬ高演協の「20年問題」が噂される。

■ 転 機

 岡山高演協の発足は昭和26年(51年)であるから、今年度の県大会は第56回大会であった。発足当時は3地区33校、現在は6地区54校の加盟である。この間、いくつかの転機はあったのだが、私の浅い経験の中で感じる最大のそれは、冒頭に書いた13総文であることに間違いない。総文祭開催がほぼ内定し、岡山県にも高等学校芸術連盟(当時)が設立されるのと前後して、いくつかの試みがなされ、今日まで受け継がれている。

【指導者講習会】 実質的な事務仕事が始まる前に、全体的なスキルアップやパワーアップが目指された。今年で21回目を迎えた「指導者講習会」の第1回は、県大会や中国大会でも講師としてお世話になっていた永曾信夫先生(桐朋学園大学短期大学部教授 当時)を講師にお迎えし、モデル上演を素材としての演出・演技講習を2日間にわたって実施している。その後、秋浜悟史氏、篠崎光正氏、平田オリザ氏、松本修氏、鈴江俊郎氏ら、主に県大会の講師としてもお願いする先生方に御無理を云い、夏休み中の2泊3日を芝居漬けで過ごす。ここ数年は、演技・演出講習と、創作講習の2本立てで実施することが常態化しているが、新参・古参を問わず、顧問の先生方も一緒に舞台(と言っても試演)に立ったり、顧問集団で創作劇を書き上げたりしている。

 また、第2回の指導者講習会では、内木名誉会長らによる「明日を創る高校演劇―その展望と顧問のあり方―」と題したパネルディスカッションも実施し、全国大会に向けての意識付けと、顧問の取組姿勢についての議論が行われている。

【岡山方式】 13総文で貫かれた運営方式である。顧問・生徒による舞台運営、出場校係、生徒実行委員制度などをとおして、ただ単に大会運営するのではなく、主体的・積極的に大会を構築することが目指された。もとより、「Gパンをはいた顧問」と「何でもやってみる生徒」が倉敷大会の合い言葉であった。以来、地区大会はもとより、県大会、ブロック大会に至るまで、岡山県内での発表会には基本的に舞台業者さんは入らない。特に舞台の裏方には、それぞれのセクションに玄人はだしのエキスパートがおり、照明機材の吊り替え・色替え・回路取りやシュートまで、すべて生徒・顧問で行う。これがために運営時間が押し気味になることは御愛敬として、出場校のリクエストに最大限に応えようとしている。

■ 現 況

 指導者講習会を継続的に経験し、あのパネルディスカッションに参加し、発表会ごとに技術的な試行錯誤を繰り返してきた顧問たち。もちろん一回り上の、この数年で退職期を迎える(迎えた)先輩方の仕掛けたそれに、ハマったと云うかハメられたと云うか、学ばせていただいたのが今の中堅顧問たちである。(私を含めた)彼・彼女たちが、Gパンが似合うかどうか、はち切れずに保てるかどうかはともかく、20年前後の我々の大量退職期を見据えて、若手の育成を急がなければならない。

【発表会】 今年度の発表会は20。上演校数は延べ134校である。単純には1校あたり2〜3本ぐらいの上演か?

【近県との交流】 が少しずつ見えてはいるが、学校教育活動との関係や責任の所在などを云々しはじめると、キリがない問題が吹き出る。上演の機会が増え、色々な条件をクリアーする(修羅場をくぐる)のは、決してマイナスにはならないのだが…。

【倉敷市文化振興財団】 が県大会をはじめ、高校演劇の育成を強くバックアップをしてくれている。財政的な心配が大きく軽減され、そこで生まれた余力を前述した体制づくりや、各芝居づくりに振り向けたいところである。が…。

【学校が忙しすぎる〜】 以下余白

(岡山県高等学校演劇協議会
事務局長)

 

富 山 県

50周年を迎える
富山県高演協

清田 尚登

 富山県高等学校演劇研究協議会は、今年50周年を迎えました。事務局長になって、このような節目に巡り会うのは、とても幸運な気がします。記念行事として、50周年記録誌発刊、さらに、生徒が参加できる記念行事を予定しています。記憶に残る年度にできたらいいと思っています。

 さて、初めに、富山についての紹介をします。ぜひ、富山を印象づけてください。

 まず、「世界遺産」の五箇山合掌集落があります。「国宝」の瑞龍寺もあります。立山アルペンルートの立山国立公園と黒四ダムも有名です。また、演劇においては、利賀村に鈴木忠志さん主宰の早稲田小劇場(現SCOT)もありました。近年、夏期合宿研修会は利賀村で行っています。アマチュアの国際演劇祭も、外国から多くの参加を得て、4年に一度開かれています。施設面では、紡績工場の跡地を利用して富山市芸術創造センターが作られ、演劇や音楽の活動場所を提供しています。富山駅北側には全国屈指の3面半舞台を持つオーバードホールがあります。富山の映像が頭に浮かび始めましたか。その映像に続いて、50周年の歩みを、今回はお伝えしたいと思います。

 富山県高等学校演劇研究協議会加盟校は、4地区に分けてあります。東から新川(にいかわ)地区・富山地区・高岡地区・砺波(となみ)地区です。

 新川地区は、ジャンボスイカの産地で有名な黒部市(くろべし)のある地域です。砺波地区は、ゴールデンウィークにはチューリップフェアでにぎわう地域です。あとは、県庁所在地のある富山地区と、氷見(ひみ)の鰤(ぶり)や大伴家持の二上山(ふたがみやま)のある高岡地区です。

 50年の歴史のスタートを切ったのは、砺波地区からでした。昭和23年(1948年)2月6日、石動(いするぎ)高校体育館で福野高校「ハムレット」、砺波高校「破戒」、石動高校「頼朝の死」の3校参加の砺波地区大会が初めて開催されました。演目がとても歴史を感じさせます。砺波地区は、この年から毎年地区大会を開催しました。

 昭和31年(1956年)6月24日、魚津高校体育館で5校参加で初めての新川地区大会が開催されました。つまり、昭和31年は砺波地区と、新川地区がそれぞれに大会を行ったことになります。

 それが、昭和33年(1958年)11月16日、富山市電気ビルホールで砺波・新川地区に、富山地区・高岡地区を加え、第1回県大会が開催されました。総参加校数14校、地区代表校1校ずつ、合計4校での上演でした。この昭和31年が、富山県高等学校演劇研究協議会の発足の年になりました。

 第2回大会は参加校18校で会場を富山市公会堂に移し、第3回は、20校と着実に参加校を増やしていき、10回大会は30校の参加になりました。

 昭和53年度より中部日本高等学校演劇連盟に加盟し、中部大会の出場の機会を得ました。加盟したその年度の第31回中部大会で、富山高校の「エレベーター」が初出場で文部大臣賞に輝き、全国大会に出場しました。愛知県春日井市民会館でのことでした。

 平成9年(1997年)の40周年記念には4地区ごとの演劇部合同でキャスト・スタッフを組み、「感動舞台’98」と題し、高岡・砺波地区「翼をください」、富山地区「からす」、新川地区「ナツヤスミ語辞典」を県教育文化ホールで上演しました。加盟校34校、大会出場校27校もあり、大成功でした。

 そして、昭和60年(1985年)第38回中部日本高等学校演劇大会が、初めて富山県で開催されました。その後、平成4年(1992年)第45回・平成11年(1999年)第52回・平成18年(2005年)第58回と4回中部大会を行うことができました。ようやく一人前になったような気がします。

 50周年を迎えましたが、今は加盟校、演劇部員の減少が問題です。昨年、平成18年度(2006年)は、加盟校23、上演校21という寂しさでした。演劇部員達は、演劇にかける情熱があり、大いに燃えていますが、新入生の獲得・部員増加までは至りません。新入生を迎えるために、新入生歓迎のための上演や、部員勧誘の工夫をしているのですが、功を奏しません。しかし、生徒達のエネルギーに、新たな可能性を感じます。

 50年に支えられた伝統を継承しつつ、今後さらに飛躍し、大きな流れとなって新しい歴史を刻みたいと思います。今後も、ぜひ富山県を注目していただきたいと思います。

(富山県高等学校
演劇研究協議会
事務局長)

徳 島 県

自慢です

田上 二郎

 台風が去ってから二年半が過ぎました。あの頃はふるさと徳島を卑下するような文章をいくつか載せさせていただきました。お気づきの方も多かったでしょうが、あれも実はすべて、ひどい環境の下でこんなに僕たちは頑張っているのだという類の自慢話でした。今回は正直ありのままに、文字通りの自慢話をさせていただきます。

一.歴 史

 長いのが自慢です。昨年秋の県大会で五十八回目。全国を見渡してもほとんど組織が無かった時代から、先輩たちは組織を作って大会を開いておりました。その第八回あたりに出場していた浅香寿穂(全国顧問)が教員として戻って来て以来、指導的立場でずっとかかわっています。現在四国大学に籍を置きつつ、県大会や各種講習会の講師・審査員を毎年務めており、

 また県内劇団の俳優として舞台に立ち続けているので、今の高校生も、半世紀前の部員の演技を観る機会が持てるというわけです。

 浅香以降も部員が続々と顧問として戻って来ています。年度末にとうとう退職する日和佐OBの紋田正博をご存じの方も多いでしょう。私も城南OBです。城東の前田は徳島市立、阿波の吉田は阿波、日和佐の岡本は城西のそれぞれ現在顧問であり、今年度からは鳥取の全国大会に富岡西の部員として出演した村端が、鳴門第一に入っております。ちなみに加盟校は県大会参加段階で十五校に過ぎませんから、顧問に占める演劇部OB占有率はおそらく全国トップではないかと思い自慢しております。

 また自ら演劇部OBでなくても、演劇にのめり込む顧問が多い県であると思います。特撮マニアや狂言師、尾崎豊をコピーしていたストリートミュージシャンなど、田舎にあっては少々異色の教員たちが、次々と徳島の高校演劇に結集してくれております。まあそれだけ面白いということでしょうか。

二.風 土

 海を隔てた田舎なので、特定の流れに影響されすぎなかったようです。また早い時期から、演劇が人生みたいな複数の指導者に恵まれたせいで、とことんやり抜くスピリットは、共通の財産として受け継がれてきました。それでいて十五校が実際に上演する芝居の傾向は千差万別。リアル、ナチュラルにこだわった作品から、紋田の城西に代表される前衛劇まで。全国大会で紹介済みの学校以外でも、この春二時間四十分のオリジナルを上演した城南や、フーコー、アルチュセールが出てくる哲学芝居を上演する城ノ内など、他府県ではたぶん観られないようなものにお目にかかることができるのも自慢です。おたがいに刺激しあいながら、影響はされすぎない、そういう状態が続いているのです。

 また指導者も部員も、きわめて批判精神に富んでいます。歯に衣着せず物を言い、また他人の言葉を真摯に受け止めようと努めます。年三回「劇昨研究会」と称するものを開き、創作脚本について批判し合います。特に最近「自由保育」で育った子供たちは、その場に初めて参加して大きなショックを受けます。「自分なりに頑張っている」などということに毛ほどの価値も認めない、今時珍しい集まりだからです。

三.財 産

 先輩から引き継がれた財産として、たいへん贅沢な活動ができているのが自慢です。「演劇部門は金食い虫」、高文連の方々には、「しようがないもの」と理解されていますが、県内一演劇に適した八百人ホールをリハ合わせて4日間借り切るのですから、そりゃあ金も食うでしょう。予選なしで全十五校が最良の環境の下県大会の上演ができる、これも他府県ではあまり例がないことかと思います。更にその大会の審査員として、扇田昭彦先生、衛紀生先生、古城十忍先生、西田シャトナー先生、三浦基先生といった現代日本演劇の頭脳みたいな方々を毎年お呼びしているのも、極小規模の県としてはたいへん贅沢ではないですか。私たち顧問団が夜の歓迎会がてらに、お話をうかがい勉強させていただいていることも自慢しておきます。

 また六月には県施設の自主事業として「文化の森演劇フェスティバル」というものを運営しながら上演します。四週間にわたって週末に一般・大学・高校・中学の合わせて二十団体以上が上演し、我々が中心となって運営します。さらに著名演劇人を招聘しての講習会なども開かれます。諸費用一切ただ。ここで部員達は運営も含めて一気にスキルアップできる上に、演劇の楽しさを満喫できるのです。

(徳島県高等学校演劇協議会
事務局長)

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