分 科 会
第一分科会

劇   作

 講師 宮沢 章夫

第二分科会  ワークショップ

演劇とは伝えること 

講師 園山 土筆

   小岩崎里瑠

 第一分科会では宮沢章夫先生より劇作についてご講義いただきました。

●「行為を書く」

 劇作というのは言葉をただ並べていくだけではできない。

 A 「こんにちは」

 B 「こんにちは」

 というやりとりを書くとき、「こんにちは」という「言葉」を書くのではなく「『こんにちは』と喋っている人物の行為」を書かなければならない。そしてAの「こんにちは」から始まった会話の最後で、Bに「愛してます」と言わせたいと考えたとき、そこに至るまでの二人の「行為を書いていくこと」が劇作の基本にある。

●「素材・方法・形式」

 劇の要素として「素材・方法・形式」というものがある。笛という楽器にたとえるなら「どんな笛(素材)を、どう使って(方法)、どのような音楽を奏でる(形式)か」ということである。つい間違えてしまうのは「『素材』が新しければ新しいものを書ける」と思ってしまうことである。今話題になっている新しい素材を使っても五年経てば古くなる。今まで用いられてきた形式にとらわれていても仕方ない。一番大切なのは「どのように書くか」という「方法」である。この「方法」を別の言葉で言えば「ドラマツルギー」であり、建物にたとえるなら「構造」である。よりいいものを作り出そうと思い、新しいドラマツルギーを生み出そうと考えるならば、何によって劇は動いていくのかという根本のところを問題として、考え抜かなければならない。ドラマツルギーというものに意識的にならなければならない。しばしば素材としての材料やどんな風に観せるかという形式にとらわれてしまいがちになるが、それは建物でいえば「壁をどのように装飾するか」ということにすぎないのだ。構造体自体を変えていけばこれまで見たことのない建物ができるかもしれない。そういうことについて考えていかなければならない。

●「歴史的に考える」

 2600年前のギリシャ悲劇から現代の劇までを見つめると、現在当たり前だと思っていることが実は当たり前でないことだということがわかる。プロセニアムの舞台形式や劇場を暗くしたり客席の

扉を閉めること。こういったことが確立されてきたのは18世紀である。

 また、「神」や「王」が長い間描かれてきたのに対し、「人」が描かれるようになったのはドラマツルギーの変遷の中では最近になってからである。これらは極めて強力なドラマツルギーであり、このような方法によって書かれたものを近代劇と呼んでいる。

●「身体について」

 われわれの身体は生物学的にみればそう大きな変化をしていない。しかし社会や世界によって変化していく身体というものがある。今大会で富士高校が上演した「紙屋悦子の青春」の中で、女は男たちの前では座布団をよけて座り、男たちは当然のように座布団の上に座る。女は常に男たちの下にあったという制度がそういう身体を作ってきた。制度や環境によって変化していく身体といったものを見つめていくことで、劇というものを変えていける可能性がある。

●「何も起こらないということ」

 機会があったら読んでほしい本に、別役実さんの「ベケットといじめ」というのがある。ベケットはアイルランドの劇作家で、1950年代に「ゴドーを待ちながら」という劇を書いたことで有名である。ウラジミールとエストラゴンという二人の男がゴドーという男を「ただ待っている」という劇だ

が、これは極めて新しい方法によって描かれた劇であった。「人」と「人」が関わり、何かが変化していくという近代劇に対し、待つだけで「何も起こらない」ことを書いたということは、ドラマツルギーという点においては大きな変化である。これが「不条理劇」と呼ばれるものだ。

 「ベケットといじめ」の中で別役さんは1980年代に中野富士見中学校で起こったいじめ事件について分析している。ある日いじめの対象となった生徒の机に、彼の写真と花、他の生徒たちからのお悔やみの言葉が書かれた紙が置かれた。有名な「葬式ごっこ」であるが、これを近代的なドラマツルギーで描くならば、この後いじめの主体との対立が起こったり、その対立に割って入る誰かが登場したりして物語が進行するはずだ。しかし、実際には「何もおこらなかった」。彼は「俺が来たらこんなことしてやんの」と言い、机の上を片付けこの出来事は終わる。そこには、この出来事をただ見ているだけで「何もしなかった」人たちの悪意が存在する。

 かつて「個」と「個」が言葉を使わずにつながっていた時代があった。その関係がしだいに言葉によって線としてつながっていくわけだが、現代は言葉によってつながらず、「個」と「個」が点とな

り、「孤」となってしまっている。人と人がつながらなくなってしまった現象を近代劇的な方法で書こうと思っても、もう描けない。こういった現象を描く方法がもっと別にあるのではないか、もっと考えるべきことがあるのではないか、そういった視点で事象をみつめていくことが、現在というものを読み解き、劇として語っていく方法を考える手がかりとなっていく。

●「劇的なるものを疑う」

 「何かが起こる」ことによって劇が生まれるということを疑ってみることが必要だ。「面白い出来事」だけを書いていって、それが劇になるかというと、そうはならないかもしれない。平凡に見える日常の具体的なものだけを積み重ねていくことにより、豊かな劇ができていくかもしれない。

 「紙屋悦子の青春」は、戦争中の日常を淡々と描いているだけで、舞台上では何も起こらない。日常を切り取ったある部分しか舞台上では見えない。しかしその背後にある悲劇的なものを想像することができることであの劇は豊かになる。ある部分を描くことによって見えない部分をより想像させるような舞台が極めて豊かな劇だと思う。

●「『書く』ために」

 初めて劇を書くとわかると思うが、「劇を書く」ということは本当に大変なことだ。「書く」とい

うことは「手が書いている」ということだ。頭が書いているわけではない。とにかく手を動かして書いていくことで文章や戯曲というのはできていく。書きながらその中に自分が生きることによって、そこに人物が生き生きと現れてくる。言葉を発する人物が生きてくる。その人物の行為を書いていく。そうやって手を動かして書いていけば戯曲というものはできていく。

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 限定された場所・時間・役者。高校演劇の大会という性質上「形式」を変えることは難しい。しかし、まだ見ぬ「方法」による新しい演劇をいつか高校生の手で生み出してほしい。今回拝聴させていただき、そんなことを思いました。

(記録者 三刀屋高校
 亀尾佳宏)

 大変希望者が多く、直前に抽選会が行われたこの分科会。抽選に当たった幸運な七十名がステージに上がり、ワークショップが始まりました。

 

【園山土筆先生によるワークショップ】

 この大会で皆さんの上演を観て感じたことは「日本語の勉強をしてこなかったのではないか」ということ。日本語の勉強とは『書く』『読む』『聞く』『話す』ことであり、特に演劇では『聞く』『話す』についての勉強が大切である。

 以前、劇団あしぶえが「セロ弾きのゴーシュ」をアメリカで初めて公演した時、コンテストということもありキャストは非常に緊張していた。しかし演じるうちに会場が観客の大きな歓声に包まれ、そのおかげでキャストの緊張がほぐれ素晴らしい演技を見せることができた。この時「日本の観客を育てなくては」と強く思った。

 演劇が成立するためには、

 『観客に演劇を届けること』

 『観客の反応を受けること』

が大切。つまり、『観客とのコミュニケーション』があって初めて演劇が成立するのである。

 この大会で皆さんの劇を見て台詞がはっきり聞こえたのは一割だけ。雰囲気で何を言っているのか分かったのは三〜四割。百パーセント完全には聞こえなかったということは、観客に演劇を届けることが不十分だということ。

 ここで、参加者の一人に対して台詞の指導が行われました。「また勝手に部屋入ったろう。」という台詞。怒りを表しながら勢いよく言うと、観客には聞き取れなくなってしまいます。そこで園山先生がアドバイスされたことは次の二点。

☆ブレスに注意

 この台詞では、「また<勝手に<部屋入ったろう。」とブレスを入れると、聞き取りやすくなる。但し間を取り過ぎない様に。

☆強く言う音に注意

 「またかってにへやはいったろう。」

 参加者がアドバイスどおりに台詞を言うと、初めよりずいぶん聞き取りやすくなっていました。

 その他、参加者の中の三名に対して台詞の言い方の指導が行われました。

【小岩崎里瑠先生によるワークショップ】

 ゲーム形式の大変楽しいワークショップで、笑い声が絶えませんでした。

? 自己紹介をしよう

○ステージ上を歩き回って、出会った人と握手し「○○です。よろしく」と言う。

○ステージ上を、人にぶつからないように歩き回る。

○ステージ上を歩き回り、人と目が合ったら笑う。

○片手で誰かと握手し、もう片方の手で他の誰かと握手をしたら他方の手を離す。(なるべく誰かと握手し続けられるようにする)

? 手で会話をしよう

 まず、二人組になって向かい合い、座る。目を閉じ声を出さず、手と手の動きだけで会話をする。相手の肩まで触ってもよい。会話の終了も、互いの息を合わせて。

 参加者からは「相手の気持ちを感じることが難しい」「伝えたいことを上手く伝えられなかった」等の感想が聞かれました。

? 集まろう

○血液型別に集まる

○生まれ月別に集まる

○生まれた季節別に集まる

 自分の血液型や生まれ月を言葉と身体で表現しながら、仲間を探す姿が多く見られました。七十人もの参加者がわずか数分後には見事にグループを作ることができました。

? 私とあなたゲーム

○一グループ十七〜十八人で円形になって立つ。最初の人が「私」と言いながら自分を指差し、次に他の誰かに「あなた」と言いアイコンタクトを送りながら手を向ける。送られた人は最初の人と同様にやり、続けていく。

 ポイントは「アイコンタクト」であり、相手に目からビームを飛ばす気持ちで視線を送ることが大切だと先生からアドバイスをいただきました。

○次は、最初の人が「私」と言い、「あなた」と言いながらアイコンタクトを送り次の相手のところへ歩いて移動する。送られた人は、送った人が来るまでに移動しなければならない。

 タイミングがずれないよう、互いの気持ちを「しっかり渡す」「しっかりもらう」ことが大切でした。

? ボール投げゲーム

○?の「私とあなたゲーム」の応用編。「赤いボール」と言いながら他の誰かに投げる真似をする。投げる時はボールの重さや速さをイメージしながら。ボールを受け取る人は、相手の投げ方を見て受けとめ方のイメージをし、動きを工夫する。

○赤いボール、青いボール、黄色いボールを用いて行う。ボールを失くさないように、しっかりと受け渡しをすること。

? 何やってんのゲーム

○一グループ十七〜十八人で円形になって立つ。真ん中で一人が何か動作をする。隣の人が「何やってんの?」と尋ねたら、真ん中の人は自分の動作とは違う動作を言う。尋ねた人は、真ん中の人が言った動作をし、隣の人にバトンタッチしながら続けていく。

? シーンを作る(即興劇)

 各グループ二名ずつ、計八名(ABCDEFGH)で行われました。

○Aさんはお寿司屋さんという設定。そこへBさんがやってきて、AさんとBさんのやりとりがあり、その後Aさんは何らかの事情で店から出て行く。Bさんが何者で、なぜ寿司屋にやってきたのか、そしてAさんはなぜ店から出て行くのか、観客に状況を伝えながらテンポよく劇を進める。AとB、BとC、CとD…というようにリレー方式で劇を続けていく。

 登場人物は、トラック運転手や外国人、主婦など多岐に渡りました。前の登場人物とつじつまを合わせながら、短時間で状況をさりげなく伝えつつ演じることは難しい様子でしたが、参加者は豊かな発想で楽しみながら演じていました。

 今回のワークショップで感じたことは、「伝え合うことの大切さ」です。人に何かを伝えるには「言葉」「アイコンタクト」「動き」「触覚」などいろいろな手段があり、それらの力が総合的に組み合わさったものが演劇であることを改めて感じるとともに、伝え合える手段一つ一つに敏感になり「伝える力」「受け取る力」を高めることが、よりよい演劇につながるのだと教えていただきました。

(文責 島根県立松江ろう学校
小畑 優子)

第三分科会

良い舞台を創る条件法

  

講師 大 田  創 

第四分科会

部活動としての高校演劇

  講師  清野 和男
  (山形県立東根工業高校)

 山 本  篤
(金蘭会高等学校)

 久保田和弘
(熊本学園大学)

 「良い舞台を創る条件は、お金か人か場所。どれかが潤沢にあれば、かなりのことができる。」大田先生は、「良い舞台を創りたいが、お金がない」という悩みを抱える高校演劇関係者に、そう熱く語って頂きました。

 第三分科会は、先生ご自身の舞台芸術家としてのお仕事ぶりを紹介頂くところから始まりました。スライドを観るだけでため息が出るような、先生の創られた舞台を観ながら、それらの多くが「金にものをいわせて」創られたものではないことも詳細に説明して貰いました。

 「舞台は台本にあわせて創る」当たり前のことですが、舞台芸術家の先生が仰る言葉には重みがあります。「板に絵を描いただけでも、もし十分にお芝居を支えることができるのならば、それでいい。しかし、台本上重要な場面においては嘘っぽさが少しでも出てはいけない。」舞台のための舞台ではなく、お芝居のための舞台を心がけていらっしゃる先生だからこそ、舞台写真を観ただけで、観る者の心をとらえて離さない美しさが生まれるのだと、分科会参加者は納得しました。

 先生が用意されたスライドは、先生の幅広いご活躍を反映して、

プロのミュージカル、オペラ、オペレッタ、バレエ、モダンダンス、フラメンコなどから、所謂ファミリー系と呼ばれる昼間のステージ、毎回斬新な舞台が話題となっている中島みゆきの「夜会」などのコンサート系、さらには、屋外イベント、テーマパークのステージにまで及ぶものでした。時間の制約上、それらすべてを観て、お話を伺うことはできなかったことが残念です。

 先生は、ご自身の仕事の手順についても、詳しくお話下さいました。最初に台本を貰うと、ラフデッサンを作り、演出家と話し合うそうです。先ず自分で舞台をイメージし、その後で演出家とすり合わせ、コンセンサスを作り上げておくことが重要なのです。そして、演出家との間に一定のコンセンサスが得られると、次にいよいよ平面上のプランを作っていきます。平面上のプランは、必ず実寸大のものを用意するそうです。舞台正面を実寸大で再現することで見えてくるものが沢山あるそうです。勿論、その中に役者もサイズ通り入れてみるのです。そこまでできて、平面図が固まってから、道具帳を作り、装置の設計図を書き、大道具に発注するのです。

 平面図の作り方については、さらに詳しくお話し頂きました。その中で、「舞台を創ろうとしているホールが、通常どのように使っているかを聞くことが大切だ」と仰いました。ホールの舞台図だけに頼るのではなく、直接ホール関係者に聞くことが重要であるとも仰いました。「舞台の切り方」(「間口」や「たっぱ」の取り方)は、舞台設計の第一歩ですが、図面だけでは分からない情報もしっかり入れて行わなくてはならないのです。「舞台を切る」条件は、このホールの条件と台本による条件の二つです。「舞台を切る」ことができたら、次に縮尺図を作って大道具などを入れてゆきます。舞台に何もない空間があると、それは「から〜ん」と言って、あまり望まれませんが、台本によっては「から〜ん」があった方が良いものもあるそうです。とにかく、事前に計算し尽くしておくことが大切です。また、舞台の上の(高い)空間の処理の難しさにも言及されました。通常の高校演劇では、そこまで意識しないということまで詳しくお話を聞くことができ、参加者の多くは改めて舞台の奥深さを感じました。

 平面図ができたら、舞台の奥行きを考えて、空間的にイメージして行くことになります。そして、実際に装置、大道具をデザインして作っていきます。デザインには根拠が必要ですが、「デザインの根拠はあくまで台本である」と先生は仰いました。ホールの条件など様々な要因によって制約はありますが、なぜこうデザインしたのかという根拠は、すべて台本から説明されなければならないという言葉からは、先生の舞台芸術家としての厳しさが感じられました。

 実際に、装置・大道具を作る際の条件は「人・金・場所」の三つだと、先生は仰いました。「三つのうち一つでも潤沢にあるとかなりのことができる。自分たちには何があるのかを考えなさい。」とも仰いました。「お金がない」「作業場所がない」「部員がいない」と、「ない」ものを嘆くことは簡単ですが、そうではなく、「あるものを最大限に活用していけばかなりのことができる」という先生のお話は、会場の高校演劇関係者への激励のように聞こえました。そして実際に金をかけずに、その代わり場所を確保して作っていった装置や、金も場所もかけずに人海戦術で作っていった手の込んだ装置などをスライドで紹介して貰いました。

 先生は、装置、大道具を作る際の材料ついても詳しくお話しされました。材木の他、藁、竹、荒縄、段ボールなど、普段私たちがあまり使わない材料でも、工夫と、作業する場所や人手が確保されれば、十分によい舞台が作って行けることが、スライドをまじえて説明されました。荒縄だけで作った舞台など、とても素人には作れそうにありませんでしたが、先生は企業秘密ともいえる具体的な作り方を詳しくお話し頂きました。平面図を書くところから、先生がお話しされてきた通りの手順で設計して行けば、実はそんなに難しいことではないということもよく分かりました。

 さらに、デザインしたり作ったりする際に大切なこととして、「決定してゆくこと」をあげられました。何もないところに作って行くわけですから、その都度一つずつ決定していかなければ何も決められません。何も形として現れません。様々なジャンルの舞台を創り続けて来られた先生は、常にそういう決定を繰り返しながら、無の空間に限られた形有る物を一つ一つ配置し、観るものを舞台に惹きつけて来られたのだと思います。当たり前のことですが、その言葉の背後にある先生の世界を垣間見た気がしました。

 最後は、時間がなくなってしまいましたが、先生が現在お勤めの大阪芸術大学の学生さんらが作り上げた舞台のスライドなども紹介して貰いました。どれも工夫された、手間のかかった、興味深いものでした。先生は、高校生でももっともっと様々な舞台を作り上げて行く可能性があるということを示されたのだと思います。

 三日間に亘って審査員をお務め頂いた大田先生には、お疲れの中、舞台美術に関する基本的な考え方や作り方を教わっただけでなく、高校生らしい豊かな発想で舞台を考えて行く楽しさのようなものを教えてくださいました。この分科会の参加者が、今後よりよい、より多様な舞台を創って行くことが、先生への恩返しになるのではないかと感じました。

(文責 島根県立安来高校
 山内 竜夫)

 第四分科会は、今年度の全国大会審査員であり、長年にわたり高校演劇に関わってこられた三名の先生をお迎えし、広島市立舟入高校の黒瀬貴之先生の司会で進められました。以下、その一部を紹介します。

 先ずはじめに、長年の顧問経験の中からエピソードを紹介していただきました。

【清野先生】

 初めから演劇が好きでやっていたわけではないが、なぜか演劇を任せられてやってみたら、一人非常に光る生徒がいて、こういう生徒をのばしてやらなければならないと思ったことがきっかけだった。四月に演劇部員を勧誘するときは、入る生徒は演劇を観て入ってきてくれる生徒が殆どなので、小さい部屋で四日から五日間、歓迎公演をして集めている。部の中で大切なことが二つある。一つは「生活に始まって生活に終わる」ということ。二つ目は「ワンステージ完全燃焼」全国大会出場が目的ではなく、目的は演劇を通してきちんと生活が出来ること、社会人になっても出来る人になって欲しいと思ってやっている。ここ十年は顧問が全部面倒を見なくても生徒が自分たちでやっていけるような体制を作っている。一つ一つ命令されるのではなくて主体性を持ってやっていけるようにしている。約束事を守るということを大切にしている。男女交際のあり方から掃除まで、合宿したときなどにスリッパの整理、風呂場の片付けなどきちっと出来るように徹底している。一年生に命令するのではなくて、家族的な雰囲気の中で、自分で考えながら出来るようになることを目的にしている。

【久保田先生】

 大学を卒業して高校野球の監督になるつもりだったが、全く経験のない演劇を押しつけられたのが始まりだった。見よう見まねでやっていたがそのうち生徒がなついてくるとかわいくなった。なぜ演劇をやっているかと考えると、人間関係の暖かさが好きで、たまたまそれが演劇だったのだと思う。そのうち生徒にせがまれて創作脚本を書くようになり、どんどんのめり込んでいった。そして一つの大会に向かって我が家で何度も合宿を繰り返した。今振り返ってみれば、自分にとって高校演劇は合宿と人間関係の積み重ねだったように思う。そして、先ず顧問の力を高めて、それから生徒に還元しようと、高校演劇関係者だけで劇団を作った。そこにも根底にあるのは信頼しきった人間関係であると思う。今は大学の職員をしているが、高校演劇から離れられないのは、やはり培われた人間関係があるからだと思う。

【山本先生】

 人と集団で作ることに関心があり、小・中学校・高校とお芝居をやって来た。しかし高校では誰も指導してくれる人がいなくて、自分たちで勝手に練習していた。コンクールにも何も参加していなかった。もっと本格的な勉強がしたいと考えて、サークル劇団に顔を出したり、大学時代に東京で勉強した。再び大阪に戻って、たまたま勤めることになった学校が女子高校だった。どちらかというと激しい男っぽい芝居を色々やってきたため、女子ばかりだったのでどうしようかと思った。ところが、やれば出来るのだと思った。先輩から伝わってきたルールやしきたりのようなものがあったが、良いものは残せばいいし、悪いものは変えればいい。それが演劇の表現を新しくすることにもつながる。もちろん、上下間のモラルは必要だが、演劇は集団創造なので不合理な壁を作っては本当に時代に向き合えるようなものは作れない。二十数年前は高校生にふさわしくないと言われていたことでも、一度評価されると色々な人がやり出す。そういう例はいくつもある。女子ばかりだから出来ないということはない。工夫し努力すれば色々な表現が出来る。それが演劇の魅力でもある。

 この後は、関連した意見を言ったり、悩み事を相談したり、質疑応答や自由な意見交換などを織り交ぜて進められました。(抜粋)

「脚本選びと練習について」

・先ず良い脚本を選ぶという作業が演劇の第一歩。その力量をつけることがすべてについて第一歩。次にどのようにその脚本をふくらませていくかを考える。そのために絶対に必要なのはディスカッションを徹底すること。それなくして読み合わせなどの練習をしても一定以上の伸びはない。やがて破綻する。

・既成脚本の場合、一部の顧問と生徒で選んでしまうよりも、数人でいくつかの作品を、読み合っていくと良い。新しいもの古いものいろいろあって、その中から気を引いたもの絞り込んでいくと良い。

・部員数や練習期間から制限をして脚本を選ぶのは良くない。自分たちがどんなメッセージを込めたいのか、共感なり反発なり何か心が動いたものをやらないと、人の心は打たない。

 (上演校の脚本の選び方や練習方法なども紹介されました。)

「部員数不足について」

・部員集めは永遠の課題だが、秘策があったらぜひ教えて欲しい。ポスターを作ったからとか、歓迎公演をしたからといって集まる保証はない。結局は、それらをきっかけにして、見に来てくれる、手伝ってくれる、一緒にやってくれる人間関係を作っていくことだと思う。

・少子化でクラスも減ってくる中で深刻な問題だが、とにかく一人でも二人でも続けていくことが大切だと思う。

・チラシや招待状を書いたり、昼休みにイベントをやったり、声をかけたり、どんどん新しい方法を考えていく必要がある。

・中学校までの暗いイメージがあったり、高校でも意外にどんな活動をしているのか知られていないことがあるので、しっかりPRしたらどうか。何かをきっかけにして活発になることもある。

・地域で演劇などの活動をしている中学生に早くから声をかけておく。

 (自分たちはどうして演劇部に入ったのか考えました。)

 この他にも「部内での係の決め方」 「演劇部は休みが少ない」 「公演の無い期間の活動方法」 「部室や活動場所」 「公演の打ち方」 「三年生として一年生にどう伝えるか」等の話題で質疑応答や意見交換が続き、様々な視点から演劇について考えることが出来ました。

  (文責 島根県立松江南高校
木村 文明)

第五分科会  生徒合評会

生徒講評委員会 から広げていきたい論議の輪。 

 第5分科会「生徒講評委員会」は、各ブロックから選ばれた15人の講評委員の活動の集大成である。では、「生徒講評委員会」の活動とはどのようなものか。それは次の理念に基づいて行われるものである。

 

◇全国の仲間がその劇を通して訴え、伝えようとしているものを共感的に理解しようとするものである。

◇劇を観て、単に印象や感想を述べ合ったりするだけにとどまらず、舞台から受けた伝わりや感動は、どこから生ずるのかを追求し、討論を深める中で、今まで自分に見えなかったものが見えたり、気づかなかったことに気づいて感動を新たにするような「学習の場」である。

◇討論の過程で見えてきたものを、言葉に置き換えることによって他の観客にも伝え、その感動を共有するものである。

 従って生徒講評委員会の活動は「観て(鑑賞)、感じて(共感的な理解)、話して(委員相互での討論)、伝えて」というものだとまとめることができるだろう。

 さて、最後の「伝えて」については、大会期間中に速報として発行する講評文と、分科会での発表という2つの方法で上演校はもとより、他の観客にも伝えていく。速報の良いところは、ホールのロビーに置いておくことにより、より多くの人に、その人の都合のいい時に読んでもらえるというところにあると思う。しかし、速報を読んだ人がどのようなことを思ったのかを情報を発信した側(=生徒講評委員会)が知ることは、まずない。一方通行というわけだ。

 これは私の個人的な意見であるが、全国大会における生徒講評委員会の最大の意義は集団講評という点にあると思う。今回も全国から個性豊かな生徒達が集まった。観劇後の感想も多種多様。話し合いのルールとして、受容的な態度で意見を聞くことは大事ではあるが、かといって、「うん、そうそう」と同調するだけでは議論は深まらない。喧嘩も大いに結構だと思う。根拠に裏打ちされた意見を戦わせたのならば後腐れなどないだろう。このように議論を戦わせた結果出来上がったのが、速報として発行した講評文である。

 15人の講評委員だけでもここまで議論を展開できるのだから、もっと多くの人たちとの間、また「観客」ではなく、「演じ手」の立場にある人たちとの間で議論をしたならば、もっと面白い、白熱した議論になることは間違いないだろう。そんな期待と、そして、自分たちの受け止め方を演じ手や他の観客の皆さんに受け入れてもらえるだろうかという不安とを抱え、臨んだ分科会だった。

 第5分科会の会場は303会議室。前に置かれたホワイト・ボードには「1.委員長挨拶 2.各上演作品についての講評(質疑応答を交えながら) 3.全体講評」と、分科会の流れを書いておいた。15名の講評委員は委員長、司会の副委員長を前列真ん中に、3人1組の班ごとに席に着く。ただ、分科会が始まってしばらくしてからも、この講評委員席には空席がある。大会期間中に全作品の講評文を速報として出すことを目標にしているので、この日午前中に上演された2作品については別室で講評文作成の真っ只中なのであった。講評文作成中の2班が会場に到着するまでは、分科会会場にいる3班で順々に講評をしていく。

 分科会参加者の方に目を転じると、12校各校から3、4名ずつの参加者、そして上演校以外の参加者の姿も10名ほど。各上演に対する講評については、全国高演協のホームページでゆっくり読んでいだたくこととして、第5分科会はどのような雰囲気で進んでいったのかを報告していきたい。

 講評委員会の朝のミーティングで、講評委員会の講評に対しての意見や質問を参加者に求めたいという担当者である私の意向を皆に伝え、司会進行を務めた副委員長の生徒も、講評が終わった後に「講評に関して意見や質問はありませんか」と参加者に投げかけてくれたのだが、そうは言ってもやはり講評委員と参加者の皆さん、そして参加者の方々どうしは初対面に近いようなものなので、場の雰囲気はやや硬く、講評に対しての意見や感想を述べるのは難しい雰囲気であった。そんな空気を素早く察知した司会の生徒は講評が終わった後は積極的に上演校の感想や意見を聞いていくという方向に切り替えてくれた。

 講評委員の生徒達は今回は講評をするという立場で大会に参加しているものの、普段は上演校と同じく芝居を創る立場にある生徒たちである。だからこそ、出場校の上演に対する思いや苦労話、ウラ話を聞けたことは大変貴重な体験であった。分科会で聞くことができた、上演に至るまでの苦労話を2、3紹介しておきたい。

「一言入れるだけでも劇が変わってしまうので、言葉選びには悩みに悩んだ。」(札幌平岸高校演劇部)

「キャストが総入れ替えとなったが、前のキャストの色に引っ張られ過ぎないように気をつけた。」(帯広柏葉高校演劇部)

 こんな場面も見られた。一つには上演校から上演校への質問。 例えば、『紙屋悦子の青春』を演じた富士高校演劇部の「ラストの、桜の花びらを散らすシーンでは試行錯誤を重ねた結果、 幕の後ろに仕込んだ扇風機の風をあてて散らすという方法に行き着いた」という言葉を聞いて、「扇風機のスイッチはどうやって入れたのか」という質問があったり、 『ウエスト・サイズ・ストーリー』 の劇中使われた、 胸を大きく見せるための小道具メロンパンに対する質問(「落ちないためにはどうやっているのか」)など、みんなが知りたいと思っているに違いない質問が繰り出され、 参加者は聞けて得したという思い、 また、 何でも聞いていいのだという雰囲気も同時に出てきたと思う。 分科会も終盤に近づき、 ようやく会場があたたまってきた。 そんな中、「照明についてどう思われましたか?」と、上演校が講評委員会に意見を求めるという場面もあった。

 最後に、目標であった「講評委員会の講評を『呼び水』とした活発な議論」に発展しそうであった一場面を紹介しておきたい。それは『ラビット・アイズ』の「恋の甘酸っぱさが良く出ていた」という講評の後、参加者から出た質問が「恋の切なさ、甘酸っぱさを出すのには役者の演技や演出によるところも大きいと思うが、どうでしょうか」という質問が出て、上演校からも無論回答はあったのだが、それだけにとどまらず、講評を担当した班からも「講評委員会の話し合いの中でも、人形を使って会話をしているところから切なさ、甘酸っぱさが生まれるのではという意見が出た」と論議を広げる形の発言が出てきたのは、今後の分科会に大いに期待できるものであった。

(文責 島根県立三刀屋高校 石津 聡子)

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