|
|
|
「美しくなる術教えます」。学祭で出品する風景画の制作と平行して、なぜかエクササイズの練習をしている6人の女子美術部員。そして、一人黙々と絵を描き続ける男子部員の物語である。 独特のBGMで惹きつけられた瞬間、緞帳が上がり、これもまた一風変わった体操が始まる。登場した女子達はそれぞれ自分自身の容姿にコンプレックスを持っており、そのコンプレックス改善に努力していく。 沢山のキャンバスが並べられた舞台装置。それらのキャンバスが状況によって、例えば、海のシーンには海の絵、公園のシーンには公園の絵が背景として並べられるという演出が観客を楽しませた。 講評委員の話し合いでは、登場人物達の名前が印象に残らなかったという意見が多かった。なぜだろう。名前を呼ぶ回数が少なかったからだろうか。それは、名前を呼ぶ必要がないほど仲が良いことの表れかもしれない。衣装がそれぞれの名前を補うように、一人一人個性際だつ色のTシャツを着ていた。それによって私達観客は登場人物の区別が容易にでき、素直に芝居に入り込むことが出来た。 講評委員からは、女子は見た目を気にして頑張っている姿に、男子も身長を気にしている和樹に共感できたという意見が出た。また、コンプレックスを持っているということが、男子と女子のお互いから見ると微笑ましくもあるという意見も出た。しかしそれだけではない。劇中では、登場人物達がそれぞれの思いをぶつけ合うことによって、『大切なのはそのままの自分でいるということ』、周りの目や美術コンクールの審査員の目などを気にせず、自分らしさを受け入れることの大切さに気づかされる。しかし、それに気づいたのは登場人物だけではない。私達観客もまた『そのままの自分でいることの大切さ』を強く実感させられたのだ。 小さいけれど確実な登場人物達の成長の描き方に共感を感じた作品だった。 ![]() |
||
|
|
|
最初から動きが大きく声量もあり、二條が殴りかかるシーンなど全体的に迫力のある舞台だった。幕が上がると抽象的なダンスで始まり、その後の転換で現れた生物教室と生物準備室という舞台に二部屋ある装置に圧倒された。 話は主に生物準備室で展開されるが、生物室という二つ目の空間が存在することにより別々の教室にいる登場人物の心を読み取れ、とても楽しむことができた。また廊下を見せるなどの工夫もあり、廊下を通る生徒がリアリティを醸し出していた。 二條の叫びで幕を閉めたこの劇は後々に深く考えさせられる内容だった。しかし会場は大きな拍手に包まれたが、講評委員からは難しいという意見が多かった。地域性を生かした脚本であったが、逆にその地域性が他の地域からみた共感につながらなかったのではないだろうか。 タイトルの「寂寞のせせらぎ」とは何を表しているのかという点で、数え切れない意見があがった。「寂寞」とはものさびしいさま、ひっそりとしたさまという意味だが、バラタナゴのいなくなった池という意見や逆にブラックバスが放流される前の池という意見、思い出を奪われた宮井の心の中というような様々な意見が出、短いタイトルの中にたくさんの解釈が含まれていた。 法律ではブラックバスを放流すれば罰金三百万円だが、たばこを吸っても罰金は無い。それなのにたばこを吸えば停学になり、バスを放しても停学にならないという現実がある。宮井が発した当然の疑問を耳にした二條は、そこで自分が犯した罪の深刻さを知る。ブラックバスを川に放流したことによって池の環境を破壊し、そのことへの裁かれない罪と、裁かれたいという罪悪感との葛藤があったからこそ、最後の叫びにつながったのだ。 そしてそんな二條に先生が「知らない間に誰かを傷つけてる。知らない間にたくさんのものを壊して、なくしている」という。その言葉は私たちの心の中にも深く突き刺さるものがあった。自分の知らないところで私たちもまた何かを壊し、誰かを傷つけているのかもしれない。それがこの劇から私たちが感じ取ったことだった。 ![]() |
|
|
|
|
2日後には取り壊される高校の木造校舎。荷物整理をしている際に、一見くだらないように見える品々も本当はそれぞれに思い出がある、ということに気づいていく高校生達の物語である。 まずギャグのセンスが良い。オリジナリティーに溢れていて、度肝を抜かれた。たとえば屋根裏に侵入を試みる時に匍匐前進をやってしまう独自さ、ほっかむりをつけての登場、はしごを抱えてるときの息のあった動き、センサーを回避するときの体の使い方など、芝居のあらゆる場面に織り込まれていた。屋根裏のストーリーなのに、上下の花道を含めた舞台をダイナミックに使い、軽快なテンポに乗って次々と場面が進んだので、笑いがより一層増していった。ただ、そのテンポに全てを任せてしまいがちなので、無理矢理な展開なのではという意見も少数ながら出てきた。何を伝えたいかがいまいち理解しにくいということだった。 屋根の吊り物を上から下へと動かして、屋根の下、屋根裏という劇空間を一瞬にして変えてしまう工夫が見られた。これはとても好評だった。ただ、屋根裏に積まれている段ボールがきれいなままだったり、ほこりの気配がなかったことが残念だった。 舞台美術や話の展開がよかっただけに、役者の体の癖や細かい演技の詰めが甘いと感じられる部分もあり、もったいないと感じた。具体的にはセリフを言うときに上半身でリズムをとってしまうところである。感情が入ってくるとさらに無駄な動きが多くなってしまう。後半になるにつれて役者の癖が目立ち気味になったことを指摘する講評委員もいた。 「トラウマを残してやる」と言って、壁を壊し始めた桜の仲間たち。桜は最初はそれを止めようとするが、最終的には自分自身で壁を崩壊させる。大きな意味のあるシーンなのだろうが、その意味やメッセージの内容について、講評委員では明確な意見は出なかった。 ラスト・シーン。一面の星で輝く夜空を見つめ、安心したように微笑む登場人物達。桜の「片付けよっか。」という言葉で、流れ星が流れる。悩みを乗り越えた桜の一言で幕が下りたと感じる講評委員もいた。生きた証、それは物ではなく、記憶なのだ。いつまでも忘れずにいればそれは一生輝き続けるものであると、言葉では語らずに教えてくれた舞台であった。 ![]() |
||
|
|
|
卒業旅行でアメリカ横断中、突然の一言で幌馬車を降ろされてしまった高校生の5人。西部劇のような舞台の中に放り込まれ、呆然とする彼ら。鮮やかな色彩で丁寧に作られた駅舎のセットの美しさに、思わず客席からは声が上がった。 「あげとーふ」 一見、気の抜けた日本語に聞こえるそれは、実は“I get off.”『ここで降ります』という意味の英語だった。次の汽車は翌日の朝。彼らは、アメリカのど真ん中で一夜を過ごすことになってしまう。持ち前の明るさで、どうにか乗り切りっていこうとする彼らの周りに、時折現れる影。インディアンのような格好をしたそれは、どうやら5人のうちの1人にしか見えない妖精の類らしい。様々な背景を抱えた彼らが、旅を通じて少しずつ変わっていく様子を、テンポよく描いた作品だった。 上演が終わった後、「役者に躍動感があふれている」「笑えるポイントが多くて飽きない」などといった肯定的な意見が多く飛び交った。派手なアクションに目がいきストーリーが薄れてしまうこともあったが、それは逆に身体能力の高さから生まれてくる良さでもあろう。台詞の多さの割に役者の滑舌がよく、メリハリのある舞台であったため、個々の場面に対する意見も出やすかった。 しかし、話し合いを進めていくうちに「流れが急展開」「妖精の存在があやふや」など、笑いに乗せられて薄れていた部分が浮かび上がってきた。舞台効果においても、スコールや妖精の登場場面など、計算されていたであろう照明や音響効果も少しうるさく感じられることもあった。 会話はすべて関西弁で進められたが、関西圏の人だけでなく、他の地方から集まった講評委員たちの間でも、違和感なく受け入れられた。それは、関西弁がメディアを通して最も多く耳にする方言であるからだろう。しかし逆に、関西弁のありがちなイメージから、シリアスな場面でも笑いに通じてしまい、どこか緊張感に欠けてしまうという意見もあった。 さらに磨きがかけられそうな部分もたくさんあったが、無限の可能性を感じさせる、エネルギッシュで、勢いのある舞台に圧倒された。ラストシーンで流れるTHE BLUE HEARTSの“TRAIN-TRAIN”。その歌詞のように、卒業旅行を終えた後も、それぞれの目標に向かって、彼らは走り続けるのだろうか。 幕が下りた後も客席からは拍手が鳴りやまなかった。 ![]() |
||
|
|
|
この劇は戦時下を生きる女性、紙屋悦子の青春を描いたものである。航空隊少尉である明石に縁談話を持ちかけられ、同じく少尉の永与との結婚に向けて話が進んでゆく。明石の悦子への想いや悦子のお見合い、明石の出撃など様々な思いや出来事が絡み合ってラストへと向かう。 戦争ものというと主な舞台は戦場であり、殺伐とした印象を抱きがちである。しかし、この劇はそういうイメージとは違っていた。舞台は一貫して落ち着いた雰囲気の居間であり、そこでは恋愛の様子や夫婦の関係などを中心とした生活が描かれている。その切り取り方は新しいものであるように感じられた。 舞台上で圧倒的な存在感を持っていたのが桜の木である。劇が進むにつれて姿を変えるその木に過ぎゆく時間を感じる。また日本の木であるそれは当時海軍の象徴でもあり、この部屋が戦争の荒波の中にあることをも感じさせる。咲いては散る桜の様子は、はかない命をイメージさせる。 出撃する明石を見送ったあとの悦子の泣き声が印象的であった。袖から聞こえてくる悲痛な声に、観客はただただやるせなさを募らせる。 この舞台は「反戦」という言葉で語れるものではない、そこにあるのは「青春」なのだ。しかしそれは私たちのような青春とは大きく違っている。彼女らに青春はあったのだろうか、という意見もでた。それは悲しい青春である、という意見もでた。では、私たちの青春は悲しいものではないと言えるだろうか。状況も時代も大きく違うけれど、それは同じように「青春」と呼ばれるべきはかない日々である。 劇中、「明日」という言葉が繰り返される。兄・安忠も明石も「明日」には遠くへ行ってしまうのだ。そのような戦時下の人々にとって一日一日は、かけがえのないものである。それに対して現代の人々にとって「明日」は当然のように訪れるものであり、今私たちが大切な感覚を失いつつあることを思い知らされるようだった。 ![]() |
||