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いじめを受けて家に引きこもっている主人公・伸。その伸を心配している家族。初めは自殺をして見返してやろうと考えているが、おばあちゃんの言葉によってその心境が少しづつ変化していく物語である。 幕が上がり、シルエットの中で伸がシャドーボクシングをしている。その中で3人の友達によっていじめが始まる。シルエットのいじめシーンが多々あったが、とても印象的だったという意見があった。それはいじめをしている陰の三人の表情も消すことで、特に伸に焦点が当たっていたからだと思う。さらに誰と特定せずに見せていた点で、「いじめ」は伸個人の問題ではなく、誰にでも起こる問題ではないかという意見も出た。 想像の世界で、おばあちゃんが伸のために陰の三人と戦い、勝利する。最後、現実で三人に立ち向かっていこうとする、伸。しかし返り討ちにさえる。この二つの場面を対比することで、現実はうまくいかないというもどかしさを感じた。 舞台美術では装置の転換が多くあったが、転換をしている最中にも人が行き交うことで、気にならなかった。装置の作りが細かくて、驚いた。伸の部屋のドアが磨りガラスになっていた。伸が母に反発をして、母がドアの裏で葛藤する。その姿が、「自分には素直になってくれない伸を心配する」という母の愛を感じた。また、反発する伸にも「母を心配させたくない」という優しさも感じられた。 ラストの「八十までは、長すぎるよ」という台詞、ナイフに頼らずに自分の手でしっかりと生きていこうと決意する姿に、「男らしさ」と「かっこよさ」が感じられたという意見が多かった。ラストに描かれる主人公・伸の、これからも続いていく人生に挑んでいこうという姿勢に、とても清々しさを感じた作品であった。 |
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ひとりで暮らす老人である松の孤独さが伝わってきて、とても悲しく思える劇だった。 セットに不明瞭な部分があったように感じられた。家の外にあったパネルがいったい何を表していたのか講評委員の中から疑問が出たが、家の中のセットはとてもリアルで松の迫真の演技とあいまって、孤独な老人の寂しさや悲しさが伝わった。 舞台転換がなく、音響もセミの音と炊飯器の音という単純な効果が引き立つ舞台だった。静かな情景は孤独な老人の雰囲気とあっていた。 松の家にはセールスマンの真、松の孫である由紀と美里といった人がやってくるが、最初はみんな松と仲が良さそうにしていたものの、途中から三人とも自分のために松を利用していたということに見ていて自然に気がつくことができた。松の家で四人が和気藹々としているのだが、その輪の中にいる松の思いが一方通行であるとの印象を強く受けた。 劇中で、死んでしまった九官鳥をどうして埋めないのかといった質問が松になされた。美里と由紀が、昔飼っていたひよこの名前を忘れていたというエピソードも出てきており、話し相手だった九官鳥のことを忘れたくなかったのだろうという意見があった。他にも、庭に埋めてしまうと、松が死んだときに誰も九官鳥のことを覚えていてもらえないからといった考えも出ていた。 骨をアクセサリーにして身につけるということに乗り気だった松は、九官鳥のことを忘れることなく、話し相手とずっと一緒にいたかったのではないだろうか。 「七夕」というタイトルがついたのはどうしてか、ということが話題にのぼった。願い事というイメージが七夕には強く、短冊に何かを書こうとして幕が下りたというラストから、どのような願いを書こうとしたのかという点に議論が集中した。 周りに人がいてほしい、来年も再来年も二人に来てほしいなど肯定的な意見が多かった。七夕の日には織り姫と彦星が会うという部分に着目し、年に一度は必ず会えるという肯定的なイメージ、年に一度しか会えないという否定的なイメージという二種類のとりかたが可能だった。 美里に毎年来ると約束された松。しかし、おじいさんは死んでおり、話し相手だった九官鳥も死に、よく家で話をしていた真は豹変してしまう。あのラストがハッピーエンドだったのか、それともそうでないのか、講評委員の中からは確かな結論は得られなかった。 リアルな舞台装置と演技で、最初から最後まで現実的であった。それだけに、このような孤独な老人が現実にいるということを実感し、気がつかされた作品だった。 |
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