審査員講評
  新しい才能と時代の反映
    
― 京都大会の審査を終えて ―
扇田 昭彦
 私が全国大会の審査委員を初めて務めたのは一九八九年の倉敷大会で、今回(二〇〇六年)の京都大会でもう八回目となった。高校演劇を観る喜びに誘われて、ここまで来たわけだが、今回も刺激的な舞台にいくつも出会うことが出来た。そしてあらためて感じたのは、高校演劇の中でも優れたものは、通常のプロの演劇人の舞台をはるかに超える感動を与えてくれるということである。

 今回は八月三日から五日まで、京都府八幡市文化センターで十一校の公演が行われた。今年も学園ものが八作品あったが、中でも高校演劇部の状況を巧みな一人芝居に仕立てた同志社高校の『ひととせ』(最優秀賞)に新鮮な驚きを覚えた。

 高校生の自殺を扱った作品も二つあったが、特に落ちこぼれの生徒ならぬ、挫折した教師の自殺を描いた島根県立三刀屋高校の『三月記』は衝撃的だった。リアリズムではないにしても、ここにはやはり時代の反映があると言っていい。

 個々の舞台の印象を書いてみよう。

 第一日は、埼玉県立秩父農工科学高校の若林一男(顧問)作、同校演劇部潤色『サバス・2』から。演劇部の部室を舞台に、巧みに組み立てた物語が二転三転する。題名の「サバス」とは安息日の意味。別役実の戯曲『天才バカボンのパパなのだ』が下敷きになっていて、別役作品では単なるナンセンスだった集団自殺が、ここでは不気味なリアリティーで迫ってくる。

 五年前に事故死し、今は幽霊となっている演劇部の先輩二人を後輩の生徒たちが成仏させようとする話が主筋だが、それに集団自殺を図る生徒たちが絡む。死をめぐる話なのに、劇全体が喜劇的タッチで展開するのがいい。ロッカーを開けると、そこに幽霊! という驚きを誘う場面も効果的だ。

 部室の装置はかなり大掛かり。電信柱、バス停、ベンチなど別役ワールドにおなじみのオブジェが並んでいるのに感心した。全体によく出来た舞台だが、会場が大きいせいか、セリフが聞こえない個所があった。

 高校生たちはなぜ自殺しようとしているのか。戯曲にはその動機が書かれていないが、少なくとも演劇部の少女二人については、そのヒントを暗示してほしかった。審査の結果、この舞台は優秀賞と舞台美術賞を獲得した。

 山梨県立甲府昭和高校の中村勉(顧問)作『全校ワックス』は、装置を一切使わず、裸舞台で通した演出が新鮮だった。舞台全体がワックスがけをする校内の廊下という設定で、何もない空間が照明の効果で美しく浮かび上がった。

 五人の女生徒たちの性格づけがよく出来ていた。転校生が一人加わることで、他の生徒三人の状況が分かる仕組みもいい。

 多くの出来事を緊密に盛り込む舞台が多い中で、この舞台はセリフをなるべく短くし、ゆったりと流れていく日常の時間を描いたのが新鮮だった。バケツを頭にかぶって「いい気持ち」になる場面など、とぼけた笑いもある。

 それだけに、生徒たちの告白ゲームが登場する後半部分で、アルコール中毒で死んだ母親の話が語られるあたりは、話をやや劇的にしすぎた感じがする。審査の結果、この舞台は優秀賞と演出賞を受賞した。

 東京都立八王子東高校の演劇部作『学割だからいいのよ』は、実験性の強い異色作。小学生の格好をした高校生たちの日常が描かれるが、巨大な鉛筆のオブジェが登場するなど、分かりやすいリアリズムを超えた、意表をつく舞台作りが目立つ。

 頭のいい生徒たちが作った観念性優位の作品という印象だったが、私にはどうも、面白さが伝わってこなかった。この作品は創作脚本賞を受賞した。

 島根県立三刀屋高校の亀尾佳宏(顧問)作『三月記 〜サンゲツキ〜』は、衝撃的で、しかも心に残る舞台だった。卒業式の日に学校で飛び降り自殺をしてしまう落ちこぼれの教師という題材自体、おそらくこれまでの高校演劇には登場しなかったものだ。

 生徒たちの演技は決してうまくはなかったが、ある種のリアリティーがある。終演後の熱い拍手に観客の感動を実感した。

 卒業生代表として答辞を読む練習をする女生徒。答辞に自作の短歌(実は辞世の歌)を盛り込むよう求める国語の教師。自殺衝動をもつ不登校の女生徒。この三人だけで劇が展開する。

 中島敦の小説『山月記』がうまく使われていて、自殺する教師の思いが、詩人になれずに虎になってしまう李徴の思いに重なる。

 終始へらへらしていて、生徒に頼りがちな教師(八木良憲)の演技がいい。暴走する教師を諭す、しっかりものの生徒(渡部詩央里)の演技も好感が持てる。教師と生徒の関係が、ここでは従来の関係とまるで逆なのだ。

 教師の死後、背景の紅白の幕から、紅の部分だけが引かれていき、後ろから黒の幕が現れて葬儀用の鯨幕になるという舞台美術の趣向が見事だった。

 ただし、エンディングはもっとすっきりした方がいい。辞世の歌を教師と生徒が繰り返し読み上げるのはくどい。この舞台は審査委員特別賞を受けた。

 第二日は、神戸市の滝川第二高校の『君死にたまふことなかれ』(いぐりんとその仲間達作)から。第二次大戦中の昭和十八年の大阪の寄席が舞台。漫才を通して表現と言論への抑圧が強化される時代が描かれる。

 姉は舞台で与謝野晶子の反戦の短歌を歌う。検閲官が禁止を命じるが、客席のあちこちから姉を擁護する声が次々に上がる。客席まで演技空間に取り込んだ設定と演出が面白い。

 ただし、人物設定と人間関係がかなり類型的なのが惜しい。軍国主義体制に順応しがちだった当時の芸人が、あのような反戦的言動を果たしてするだろうかという疑問も覚える。

 福岡市立福翔高校の藤井絵里作・演出『木』は、いかにも高校生らしい学園ドラマだった。生徒の作・演出で、等身大の少女たちの友情と破綻を描いた。

 入試を控えた中学の同じクラスの女生徒五人。勉強家の生徒(作者自身が演じた)、勉強嫌いで奔放な性格の生徒(安部花子の演技がユニーク)、一人だけ別の高校を受験する音楽志望の生徒など、人物の描き分けもきちんと出来ていた。

 冒頭と終わりに独白があり、これを奔放な生徒がやっていたが、これはこの生徒のキャラクターとはずれるのではないか。最後に、生徒たちの友情のシンボルである記念樹の映像が背景に映し出されたが、これはむしろ観客の想像力に任せてほしかった。

 北海道釧路北陽高校の川口慶美(生徒)作『ラスティング ミュージック』は、前述の『木』とも共通するテーマを扱っていた。つまり、少女たちの友情の破綻と、そこからの回復である。この作品の場合、生徒たちのピアノ演奏を劇の重要な要素として採り入れた趣向がユニークだ。

 ピアノを専門的に学ぶために転校していく響子と、彼女にピアノを学ぶ夏美。そして、かつてピアノに挫折し、今は合唱部に君臨するノーベル(千葉雪絵。演出も兼ねる)の三人が物語の中心だ。ノーベルのばかばかしいまでの ?女王? ぶりが愉快で、演技も個性的で面白い。対立から和解へのパターンがはじめから見えるが、ノーベル風の笑いが他の登場人物たちにもあれば、もっと精彩のある舞台になっていただろう。この舞台は優秀賞を獲得した。

 大会開催地の京都府の代表として出場した同志社高校の奥田菜津(生徒)作『ひととせ』は、全国大会では珍しい一人芝居、しかも、作者自身のオリジナル作品の独演だった。部員一人きりの生徒が、部室で孤独に過ごした一年間が、切実なリアリティーで生き生きと描かれた。これはかなりの部分、作者自身の体験らしいが、だからこそ語りたい思いにあふれた作品になっていた。部室にいつも一人でいたことが一人芝居に結びついた理由もよく分かる。定員千人を越える会場で、マイクを使わず、観客を退屈させずにこの作品を一人で演じ切った奥田菜津の度胸と演技力を称えたい。

 部室の窓の外に満開の桜の枝が見える。場面に応じてこの枝が、夏の緑、秋の紅葉、雪をかぶった冬の枯れ枝へと変わっていくのだが、この変化を暗転で処理せず、主人公が自分で枝を付け変えていくところを見せる趣向が愉快だった。虚構であることをはじめから見せてしまう舞台なのだ。セリフをなるべく主人公の独白にせず、ぬいぐるみの犬に話しかけたり、マネキン人形の首を相手にした芝居の稽古にしたりする設定もよく出来ている。この舞台は審査委員の多くの支持を集め、最優秀賞に輝いた。

 徳島県立城西高校の中窪理恵原作、紋田正博(顧問)構成『あすべすと』は、劇全体が幼稚園児の運動会という設定。頬を赤と青に染めた園児たちが音楽に乗ってゲームをしたり、キャッチフレーズ、CMなどの既成の文句をシュプレヒコール風にしゃべったりしながら、日本の社会と歴史に対する批判を繰り広げる。いわば道化芝居風の風刺バラエティーだ。

 コンセプトは明確で、音楽を不意に切断するなど、独自の異化的演出も見られる。だが、似たような趣向が何度も出てくると、観客としては次第にあきてくる。演技者たちの「遊戯性」を基本にした作品だが、全体に様式性が強いために、逆に演技に「遊び」という外枠がはめられているようにも見える。もっと生徒たちの等身大の思いが伝わる舞台にした方がいいのではないか。

 昨年の青森大会で最優秀賞を受賞した青森県立青森中央高校の今年の演目は『生徒総会06』。プロの劇作家として活躍する畑澤聖悟(顧問)らしい巧みな物語構成だ。大勢出演する生徒たちの動きと演技にも若々しい躍動感があった。

 舞台は生徒総会のリハーサル。制服絶対反対を叫んで孤立する男子生徒と、それに反対する生徒会長ら多数派との対立。両派の勢力図がめまぐるしく変わっていく意表をつく展開がスリリングで、演出もうまい。ただし、しっかりものの生徒会長と次期会長らしい生徒との親密な会話で終わるエンディングは意外に常識的だった。その点に軽い不満を覚えた。

 愛知県・愛知高校の『死神』は、古典落語を踏まえた同校演劇部の作品。死神によってサラ金の取り立てから救われ、大事な呪文まで教えてもらった男が、欲に駆られ、最後はうっかり命を落としてしまうまでがコント風につづられる。出演はすべて男子。

 物語は面白いが、問題は全体に演技が幼く、緩急自在のテンポに欠けること。セリフはよく聞こえるが、喜劇的な面白味が立ち上がってこない。高校演劇にはあまりないタイプの台本だけに惜しい気がした。

(演劇評論家)

面白く刺激的
 若さの空間  

  高田 一郎

高校演劇、   
甲子園よりすげえ

 前田 司郎

【舞台美術講評】

 暑い、それも京都ならではの猛暑の中で、さらに熱いものがあった。今回の京都大会である。

 会場になった八幡市文化センターは由緒ある石清水八幡宮の麓にあり、僕は毎日の行き帰りに神社のある山の頂を眺めながら歴史のオーラを浴びたのであった。そういえば古代ギリシャ劇場も、側に神殿があったなあ、などとギリシャで観た演劇フェスティバルを思い出した。規模、内容などは様々で異なるが、演劇を称える点では、全く同様である。会場に入るために行列をしている観客の人々を見て演劇祭に参加するという独得の心の高揚を感じるとともに、高校生たちが、どんな上演を観させてくれるのかと期待の気持ちも、ぐんぐんと膨らんでいく。

 期待は、まったく裏切られなかった。予想以上に感動させられるものであった。

 今回、全国大会の審査員を仰せつかったのは、ひさしぶりの事である。何年か間をおいて観た高校演劇のレベルは見違えるほど向上したと思った。せりふ、演技、舞台技術など、どの点を採り上げても基本をしっかりと踏まえた上での表現であることが明らかに示されているのには感心した。これは高校演劇が長年続いてきた上での貴重な積み重なりの成果であり、またその間の顧問の先生方の努力と方向性の正しさを確実に証明していると感じた。ただ単なる、その場の思い付きや、底の浅い表面上だけの面白さを狙った表現が、まったく見られなかったのは、全国大会であるという、選り抜きの代表が揃っているとはいえ、大変好感のもてるものであった。

 私が専門とする舞台美術の面からみても同じことがいえた。舞台空間に対する意識は、以前に比較して数段飛躍していた。従来は舞台を額縁のある絵画としてとらえ、舞台装置で絵画的に平面的に装飾するというものが主流であった。それが今回は、舞台を立体的な空間として把握し、舞台装置を空間を立体的に構成する材料、要素とする姿勢が見られた。この方向は舞台空間のみならず演劇の上演自体を現代的な表現に導く結果をもたらしたと思う。以上の視点から、上演作品を観てみた。

『サバス・2』舞台全体が見えた瞬間、よくも運び入れたと思うほど沢山の物体が圧倒的に目に入ってきた。広い舞台を密度ある空間に、短時間という悪条件でまとめ上げた技術力は非常に評価できる。乱雑さが、われわれの、この現代の社会を象徴しているようでもあり感覚的にも優れていると思われた。

『全校ワックス』前の密度のある舞台の直ぐ後に現れた、黒幕だけのシンプルな構成は、とても新鮮に感じられた。この、舞台装置の主役はワックスで拭かれる床であった。ただ一つ持ち込まれたモップ立てがポイントとして効果を出す。労働作業と会話が巧みに関連し、演技、せりふが舞台空間を構成した。

『学割だからいいのよ』続く、この舞台も黒幕だけの背景の前に身体表現とせりふで展開される。赤いランドセル、巨大な鉛筆などが印象的に現れ、現代的な遊戯感覚はフレッシュで面白く今日的な若々しい舞台空間が展開され好感が持てた。たゞ感覚的な表現に、いまひとつ、あゝそうかと納得する裏付けがほしかった。

『三月記 〜サンゲツキ〜』卒業式の紅白の幕が、葬式の白黒の幕に転換する仕掛けは、なかなかのアイディアだなと感心。ここで演じられた教師像は、私にとっては衝撃的であった。世代は変わった、もう、かなわない。それならば舞台美術も、もう一歩ふみ込み、優等生ではない破れかぶれのものが作れるチャンスであった。

『君死にたまふことなかれ』自分が体験したことがない世界を表現することは難しい。戦争中の大阪の寄席を中心とする舞台。真剣に取り組んでいる態度には賛成。時代考証、寄席の舞台や楽屋などの構造、さらに舞台転換など技術的にも調査は山ほど。別の方法として抽象的表現があるが簡単には出来ない。勉強、努力です。

『木』前の作品が、過去の時代や、寄席という特別の世界をあつかっていたのに対して、これは、自分たち自身の世界であり、場面も教室という毎日のように見て知っている場所である。かえって難しいかもしれない。壁に題名よりか木の材質を使ったのは表現となる。樹木のスライドは説明的かも。

『ラスティング ミュージック』黒の背景にピアノと学習机で構成している。劇の内容が比較的自由なのだから、机の配置なども音楽教室にこだわらず自由で不規則な構成の方が、ふさわしかったと思う。突然、持ち出される、ノーベルの座る椅子は、彼ら、仲間たちの独自の世界を垣間見せ、手作りの感じとともに効果を上げた。

『ひととせ』演劇部の部屋という身近な場面を非常にリアルに造作しているのだが、入口のドアを壁とともに省略しているのは知的な作戦として成功。無対象のドアを開けるパントマイムから始まるので、その後窓外の枝を取り替えるなど、写実でない演技も不自然なくみせる。小道具とのセンスあり。

『あすべすと』カラフルな衣裳の演技者たちが、これも色彩あふれるロープやダンボール、布などを自由にあつかい、広い空間を自由に駆けまわりながら展開していくエネルギッシュな舞台であった。ただ、華やかに構成演出された様式と、社会的な内容とが必然的に結びつく様相の的確さが、今一つ欲しかった。

『生徒総会06』大勢で総力を挙げて立ち上げた若々しさが舞台空間いっぱいに、あふれる上演であった。対立する感情が高ぶった時に思わず青森のことばのニュアンスが発せられるのは独自の魅力。残念なのは順風すぎた。実力に対して易しく処理したようにみえてしまった。一段高い壁に若さをぶつけてほしい。

『死神』演劇に対する、まじめな姿勢、一生懸命さに好感が持てた。しかし、それが、この作品にふさわしいかったかといえば問題である。作品の持つ軽快なテンポに合わせて、もっと自由に楽しめばよかった。事務所の場面も死神が出没するのだから現実から離れてもよい。各自が面白がってやれる作品だ。

 以上、十一の作品を、僕自身、十二分に、たのしませてもらった上に思わぬ刺激をも受けたのであった。会場での仕込み時間の短いこと、とくに照明作業は大変だ。会場が舞台、客席ともに広く、せりふ、音響の調整も容易ではない。数々の困難な条件をあげれば切がないと思う。それらを乗り越えての上演と考えると成果も大切であるが、その過程の方に、さらなる貴重なものが、あったに違いない。

(舞台美術家)

 文字数の関係で挨拶、丁寧表現など、割愛させていただきます。今大会は本当に素晴しかった。感動した。これから書くことは全て私見です。僕の考えでしかないので、適当に聞いてください。

『サバス・2』
俳優たちが良い。橋本さんが良い。脚本にある無理を、俳優が勢いで通すことで道理がひっこんで、新しい物が出て来た様な感動を覚えた。プロにはない生命力、蛮勇のようなものを感じる。美術や、音響にもセンスを感じる。

 ただ自殺の扱い方が、衝撃度を優先し、その深さを見れていない。狭い舞台の上に乗せるために巨大なテーマを矮小化している。一部をそのまま舞台に乗せ、その大きさを観客に想像させた方が良い。観客の想像力を推し量り信頼する事も必要ではないか。

『全校ワックス』
傑作になる可能性を感じた作品。だだっ広い舞台に俳優が5人という時点で大丈夫かな?と思ったが照明や大道具をうまく使い、シュールなリアリティーのある空間を作りだした。凄い。

 告白ゴッコのくだりは必要ない。血の通ってない苦悩を出すことで、せっかく作り上げた繊細なリアルが、壊れてしまった。やるならとことんシュールに、あの、なぜか紙ふぶきを常備しているエピソードのようなものを重ね、もっとわけのわからない世界に連れて行ってほしかった。

『学割だからいいのよ』
 前衛的なことをしようとしていて、好感が持てた。しかし、マイノリティーでいることは大事だけど、一人になってしまっては芸術は成り立たないと思う。色々悩んだんじゃないか、作家としてシンパシーを感じた。今回の公演は成功とはいえないが、凄い才能を持っているように思う。出来れば演劇を、無理でも何か別の芸術を続けてほしいと思った。

 この公演を成功させるには、身体のことをもっと考えるのと、内容をもう少しだけロジカルにする必要があったと思う。

『三月記 〜サンゲツキ〜』
 ベタでテンポも良くないギャグの羅列がだんだん心地良くなっていったのは、俳優をだんだん好きになっていったからだろう。三人とも巧い俳優ではないが、好きにならずにはいられない魅力がある。

 生徒の目の前で学校から飛び降りといて「ありがとう」もないだろうと思う。無理やり感動を狙ってきたなという印象。

 生徒の目の前で飛び降りたのか? その問いに対する回答にこそ、人間の真実のようなものが隠されているのだから、そこを掘り下げてほしかった。

『君死にたまふことなかれ』
 姉弟の関係が良かった。ストレートな台本でわかりやすい構造なため観客は舞台に引き込まれていくが、暗転のたびに集中が途切れてしまう。美術の具体性を減らし、抽象性を増すことで暗転の数を減らして、集中して見させる工夫を。

 検閲官を作家の都合に合わせて悪人にしてしまったことで、浅い話になってしまった。検閲官だってあの状況で「漫才をやらせてください」などと言われれば心が動くだろう。全ての人間が、その人なりのリアリティーを持って生きている事を忘れないように。

『木』
 先にテーマを決めてしまったことで、自由を奪われてしまったような印象。遊びの要素が素晴しい。妙にまじめぶらないでくだらないことをとことんつめていくうちに、テーマなんて後からついてくると思う。作文を書くわけではないので、テーマを決めて書くときでも、もう少しぼんやりしたテーマで書くといい。

 遊びの様なものにこそ、作り手の無意識が宿ると思う。遊びの要素を洗練させて、それだけで構成されたものが見たかった。俳優たちの遊びはもっと観ていたかった。

『ラスティング ミュージック』
 登場人物のバランスが良い。作家の都合に左右されず生き生きとしている。合唱部員にも、ノーベルに変な水を売りつけるようなドラマが用意されており、深みがある。しかし演出に難があった。セリフが単調だし、皆で声を合わせてセリフを言うなど、あまり効果的でない演出が多く採用されており、稚拙な印象を与えていた。

 俳優を一つの演技方に合わせて訓練するのではなく、俳優に合わせて演技方を作っていくべきだ。俳優たちの個性的な魅力を引き立てると良いと思う。

『ひととせ』
 非常に感動した。全てにセンスを感じた。一人芝居であるゆえ奥田さんの鮮烈なセンスが、作品の細部にまで行き渡ったためであろう。一人芝居のハンデが良い方に作用したとも言える。一つのエピソードで引っ張り過ぎとも感じたが、これで良かったとも思える。

 演技に関しては、技術を信じることも重要だが、それを疑うこともまた重要である。少しだけ、疑う必要があったかも。難しいことだけど。色々な人が助言のようなことをしてくると思うが惑わされずに好きなようにしてほしい。

『あすべすと』
 困惑した。作品としては酷いと思う。紋田先生の主張のみが前面に出ていて、僕はこれを芝居とは思えない。ロジックだけで芝居をつくらない方が良い。

 しかし、俳優たちの活き活きした顔や演技をみていると、そんなことを思う自分が卑屈に思える。あれだけの数の生徒が小難しい芝居を真剣に楽しげに演じている姿は確かに美しいのかもしれない。僕は困惑した。僕らの演劇の目指すものと、高校演劇の目指すものの、間でゆれた。僕が教育者だったら別の見方をしたかも知れない。

『生徒総会06 』
 よく出来たお芝居だった。が、「良く出来た」の部分がネックになっている。構造としては、全員に見せ場のある、カラオケ大会型の芝居だが、一つ一つの見せ場が重なっていき、一つの形を作る仕掛けがほしかった。見せ場が並列に並んでしまい、シンメトリーで平面的な美術と相まって退屈な印象を与えてしまった。俳優の技術は確かである。しかし、巧くなるということは個性を消すことでもある。少し稽古しすぎなのではないか? 俳優のナマの部分がもう少し出ている方が僕は好きだ。

『死 神』
 もっと遊べるはずだ。もっと面白いアイディアが出てきたはずだ。技術も高くないのに、まじめに作って面白いわけないでしょ。技術なんてどうでもいい。君たちはもっと全然面白いはずだ。はじめて顔を白塗りしたとき笑わなかった?その面白さを観客と共有すればいい。白塗りの人が本気で芝居してたら見てる方は面白いんだから。もっと自由にやってください。芝居の体裁を繕うことなど考えないで。自分たちが面白いと思うことをやってほしかった。

 (作家・劇作家)

ゼロから生みだすことの
 
途方もない魅力に
  
とりつかれて欲しい

 高泉 淳子 

高校生パワー、
 京都の夏

 川口 多加 

 今回はじめて、そしてじっくり、 "高校演劇"を拝見しました。見ている間の三日間、見終わってからも、いろいろなことを考えさせてくれました。近頃こんなに演劇について考えたことがあっただろうかと思うくらい、暑い真っ盛りに真剣に考えたのです。

 全国大会に参加した各高校は、想像していた以上に水準が高かった。大学生以上、いや社会人以上の完成度を持ち合わせた高校もあったように思います。それには感心しました。と、同時に、私は少々がっかりもしました。

 私が今回楽しみにしていたことは、今の時代を生きる高校生は表現というものをどう捉え、演劇というものをどう手玉に取り、見せてくれるのだろうか、ということ。

 今年の春、上野の美術館に高校生の美術展を観に出かけました。どの作品も斬新で、力強くて、刺激的でした。表現の基本的なものの上に彼らのオリジナルな新しさがそこにはあった。未完成でも、向っている矛先が揺れていながらも、しっかりとそこには彼らが描こうとする表現があったのです。

 もちろん美術と演劇は表現形態は違います。しかし、音楽でも、絵画でも、映画でも、?表現?の根底にあるものは同じなのです。それは何もないところに、そこにゼロから立ち上げるということ。これは並大抵のことではありません。けれど何もないところに、何かを生みだすというのは、途方もない驚きと感激があり、果てしなく面白い作業だと思うのです。

 今回の作品を見て残念に思ったことは、新しさを感じなかったということ。作品も、テーマも、構成も、役者体も、意外とみんなオーソドックスなのに驚きました。私の高校時代はもう三十年程前ですが、なんか訳がわからなくても、新しいものを作りたいという欲求だけはあったような気がします。今の新しい時代を生きている高校生は、どんなドキッとするような、スリリングな作品を見せてくれるのか期待していたのですが…。

 それにはいろいろな要因があるかと思います。作業の現場を見ていないからわからないのですが、ひとつには顧問の先生と部員の関係にあるのでは…。どうしても作品が古く感じてしまうのは、演劇概念が私が20代の頃に感じたものに何故か近いとするならば、それは私と同じ年に近い先生の概念ではないでしょうか(憶測ですが…)。高校演劇の場合、顧問はあくまでもプロデューサー的存在であって欲しい。部員たちがやりたいことを、なんとしてでも具現化してあげる存在。「そりゃあ無理だろう」というやっかいなことも、あれやこれや頭をひねって、近い形で実現してあげる存在。演出家、脚本家ではなくて、プロデューサーになるべきだと思うのです。音響が多少変でも構わない。ライティングが未熟でも構わない。それが彼らのやりたいことの一環であれば、新しいオリジナルな作品の第一歩になるかもしれないのです。

 音の使い方も、ライティングもどこかで見たことのあるような、なんか無難なおさまり方で、ちょっとがっかりでした。それがもしも顧問のせいでそうなってしまったのであれば改めなければならない。生徒たちのせいであれば、顧問はもっとかき乱さなければならない、と思うのです。

 『君死にたまふことなかれ』、賞には選ばれませんでしたが、私はこれは最もよくできた作品だと思います。演劇鑑賞会などで全国で上演しても充分に通用する。キャストもスタッフもひとつになって頑張っていたと思いますし。なのに何故入賞できなかったのか? それはテキストがうまくまとまっているから、そのお話を追ってしまう。話を追っていくと、どの辺で彼らはこの話を選んだんだろうということが気になってくる。そしてそのうちにストーリーの構成の単純さがひっかかってくる。しっかり演じきっているだけに、そういう印象を与えてしまうのですね。どういう過程を踏んでこの作品が出来上がったのかわかりませんが、もし生徒たちの強い要望でこの作品が生まれていたとしたら、そんなことは気にならなかったであろうと思うのです。私が高校生の時よりも、今の方がはるかに戦争は身近な問題であるし、ここのところ漫才ブームだし、それを今を生きる高校生が体験していない時代を借りて、戦争に対してやりきれない思いを表現するのであればこれは大きな意味がある。だけど形しか見えてこない。お話以上の思いが伝わってこない。それが残念でした。

 これとは対照的に『木』は、ほんと生徒たちの中から生まれて創り上げたのだろうと伝わってくる作品でした。藤井絵里さんのこの本は、まだ未完成であるけれど、素直に書き上げた好感が持てる作品だと思います。役者ひとり、ひとりにあて書きしていて、役者もそれを体で精一杯表現しようとしていて。あとは一本の筋道に、どれだけ枝葉を作って寄り道するか、それが演劇的行為であるということを知って欲しい。

 『全校ワックス』はテキストと役者が、とてもバランスよく仲良くなっていて、心地良い作品に仕上がっていたと思います。何が起こるわけでもない設定に、人物たちがとりとめのないお喋りで小さなドラマを創り上げていく。設定の解釈が容易だから、演者たちも伸び伸びと遊べる。顧問の先生はセンスあるテキストを生徒たちに与えたと思う。このテキストを叩き台にして、生徒たちに委ねてみたらどうだっただろうか。たとえテキストよりも荒くなったとしても、とりとめないものになったとしても。多分、これ以上のワクワク感を持つ作品になっていたのでは。

書き手がまとめようとするがために、後半必要のない、この作品には似つかわしくない盛り上がりがあって、残念。それはきっと、生徒たちの感覚が生きてきて、テキストに頼らない表現力がついてきたからなのでしょう。テキストを彼女たちに委ねたら、これは間違いなく、最も優れた作品に選ばれていたに違いないと思うのです。

 『学割だからいいのよ』は、台本を読んだ時、その言葉の勢いとスピード感に驚きました。どんな風な舞台なのかとても楽しみでした。だけど言葉と身体が一致してなかった。表現したかったことと演じていることにちぐはぐさを感じてしまう…。多分この作品ができて間もない頃は、周りを圧倒するくらいの勢いがあったのではないでしょうか。予選の時のメンバーとは違うメンバーでの上演とのこと。集団創作で創り上げていくスタイルの作品の場合、メンバーが変わるというのはなんともむずかしい。新しいものを生みだすことに挑戦していただけに残念です。予選が前年の秋で、全国大会が翌年の夏というこの大会のシステムは問題があるのでないでしょうか。

(役者・劇作家)

 「高校生らしさ」という言葉を聞くことがある。ルーズソックスが流行した頃、「もっと高校生らしい服装をしなさい」と言う教師に対して、当の高校生は「ルーズソックスって高校生しか履いてないですよ」と反論していた。高校演劇だからこうあるべきというスタイルなどないはず。今年の京都大会はバラエティーに富んだ舞台を観ることができて興味深かった。弱輩者の勝手な雑感ではあるが、以下に感想を述べる。

埼玉県立秩父農工科学高等学校

『サバス・2』
 オープニングシーンが魅力的。電燈やマネキンを見ながらこれは何だろうと思っているうちに芝居に引き込まれていた。芝居のテンポも良くて、飽きずに見ることができた。叫ぶ感じの発声が多く、時々聞きづらいこともあったが、全体としはてパワフルで役者が舞台を楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。部活全体の活気が想像されて好感を持った。ラストシーン、パソコン部員がみんな自殺したのに驚いた。この種の集団自殺の約束には裏切り者(?)がいそうな気もする。もっとも、それでは幕がおりないけれど。

山梨県立甲府昭和高等学校
『全校ワックス』
 女子高生たちの会話が非常にリアル。たとえば、カン高い声で自分を作って見せている生徒が登場するが、同じような生徒を実際自分も担当していて、同じようにクラスメイトから「声がムカツク」と言われていたり。演じる役者たちも余分な力が抜けていて脚本に合った演技だと思う。それだけに、ヤマ場の涙のシーンとラストの青い照明には少々作為が見えた。少ない道具、少ない音、最小限の変化の照明が生きた作品。女子高生諸君、しっかり悩んで成長しようぜ! と素直に思った。

東京都立八王子東高等学校
『学割だからいいのよ』
 まず、言葉のおもしろさに惹かれて頭で観た。途中から心で観ようと意識したら、高校生の生の声が聞こえてきた。一種、前向きにひらきなおった姿勢とも思える。賛否両論がありそうな気もするが、自分としては好みだった。ラスト近くに登場する、タイトルが書かれた垂れ幕を見て「なるほど、学割だからいいのか」と納得した。この舞台を作るには、非常に大きなエネルギーを要すると思う。そこにチャレンジした高校生たちに敬服。

島根県立三刀屋高等学校
『三月記 〜サンゲツキ〜』
 「山月記」のイメージで、どんな暗い舞台かと想像していたら、良い意味で裏切られた。突き抜けた情けなさの先生と、しっかり者の生徒。演じる役者が自然体で、キャラクターがすんなり入ってきた。軽さと深刻さのバランスがいい。卒業式の紅白幕が一転して葬式の幕になる演出もおもしろい。起承転結の転が成功している分、結に至るまでの演出が少し長いかとも思ったが、客席の高校生たちの啜り泣きが舞台の成功の証。

滝川第二高等学校
『君死にたまふことなかれ』
 作り手の作品への愛が感じられて、いい舞台だった。時代考証の難しさは言うまでもないが、果敢に挑戦した姿勢に感服。特に役者の所作は、研究を重ねた結果だと思う。丁寧な作りという印象。役者の魅力に引き込まれ、六十分が短く感じられた。客席も巻き込んで一緒に行こうとする演出も好ましい。ただ、自分が作中の漫才の客だとしたら、あの検閲官に逆らって「続けさせてやれ」という勇気はないだろうな、と思ってしまった。

福岡市立福翔高等学校
『木』
 「進路」「友情」という等身大の学園物の王道とも言うべき作品。二人の男の子の存在がいいアクセントになっていた。劇中歌「記念樹」の存在が大きい。これを歌いたいからこそこの芝居ができた、と言ったら言い過ぎだろうか。それだけに照明で木を作ってしまう必要はなかったと思う。ひとりひとりの個性を生かしたのびのびとした演技にすがすがしさが感じられた。

北海道釧路北陽高等学校
『ラスティング ミュージック』
 これも音楽の存在が大きい作品。劇中のピアノの生演奏が印象深い。本当は弾けるであろう「ねこふんじゃった」をわざと下手に弾いている努力にも感心した。脚本としては、主役グループに対するノーベルの存在やキャラクターが上手に配置されていると思った。

同志社高等学校
『ひととせ』
 たった一人の部室で過ごす一年。窓の外の桜の枝を、夏には緑の葉の枝に、秋には紅葉の枝に変えるという演出がおもしろい。冬には枯れ枝にするのだろうと思っていたら、秋用の枝から葉をむしり取ったのが意表をつかれた。部室では一人きりの彼女が、教室ではどんな過ごし方をしているのかを想像しながら見た。秋のシーンの終わりの「私、……そうじゃなくて……。やりたかったんだ。」という素直なセリフが心にすとんと落ちて、印象的だった。

徳島県立城西高等学校
『あすべすと』
 17人の役者が舞台中を所狭しと駆け回る。口々に語られる言葉の洪水。そのアイロニカルな内容にはっとさせられる。ときどき客席に向けてシャッターが切られる使い捨てカメラのフラッシュライトに、徐々に不快になっていくこともまた、この芝居のしかけのひとつだろうか。舞台を作っていく過程で高校生たちが感じた「社会」が、上演を通じて客席の高校生にも伝わるであろうことに意義を感じた。

青森県立青森中央高等学校
『生徒総会06 』
 「叫び」の芝居という印象。役者のパワフルな演技に圧倒された。演じている役者たちの躍動感が客席にストレートに伝わってくる。現場教師としては、ウチの生徒会もこんなに元気だといいなあ、と思ってしまう。バスケット部のメンバーが魅力的。思わず顔がほころんでしまったのは、彼女たち自身が楽しんで演じていたからであろう。「全校生徒の生徒会」にこだわりを持つ生徒会長の心中には、どんな屈託があるのだろうと想像してしまった。

愛知高等学校
『死神』
 古典落語に題材を取ったということで、最後のオチを楽しみにしながら観た。現代劇にアレンジするに当たっての苦労がしのばれる。まじめにきっちりと作っている点には好感が持てるが、もう少しコミカルに、早いテンポで芝居を進めてもよかったのではないか。死神のキャラクターにもデフォルメの余地を感じた。ストンとしたキレのいいラストは落語ならではの味。着眼点の妙である。

(浜松海の星女学院)

観客席から  

山内  一昭 

現在進行形で
  見られたら…

  高 橋  茂 

【全体の感想】

 思いもかけない機会をいただき、贅沢で熱い楽しくとも苦しい三日間を過ごさせていただきました。

 一観客として、楽しみ、今の高校生の表現がここまで進化していることに感動しながらも、一抹の不安も感じ少し複雑な気持ちを抱えながら帰ってきました。観客席から見た感想になりますが、感じたこと思ったことを少し記しておきたいと思います。

 十一本の熱のこもった発表を見ながら、完成度の高さに驚かされつつ、微妙な違和感というか、ひっかかりが忍び寄るのを正直感じざるを得ませんでした。一校だけならば、ああそうねと流すこともできたのですが、何校もに見られると、今の高校生のおかれている場が浮き彫りにされ、演劇にとどまらず重い問題として迫ってきた感じです。逆に言うと、演劇であるからこそ、目に見える形で浮き彫りにされたとも言えましょう。全国大会の場では時間も限られ、考えもまとまっていませんでしたので、せっかくの場をいただきましたので気がついたことをいくつか申し上げておきたいと思います。

 一つは、今の高校生にとってはこんなにも「生」と「死」の壁が薄いのかということにあらためてショックをうけました。親近感にあふれているというか、お隣感覚で「死」はそこにいるようです。「死」が何らかの形で関わる作品が多かったことも、もちろんですが、「死」の訪れが唐突にしかも簡単に訪れ、登場人物たちが抵抗感がないのに引っかかるものを感じました。そんなにあなた達は死にたいの。と言いたくなるほど、軽々と死が訪れる。素材や方法のバリエーションはあっても、通底するのは壁の薄さです。死はドラマチックにならざるを得ませんから以前から高校演劇ではよく扱われる訳ですが、この「薄さ」は最近のものだろうと思います。死が軽いのではなく、壁が薄い。それなりに悩みながら死を選ぶには選ぶのですが、それが単なる選択肢の一つのようになってしまっていることにたまらないものを感じます。もっとも悩み自体も死ぬほどのことでもないと思いますが、逆にそういう軽いと思われる悩みがもう軽くなっていないことを示すのかもしれません。生がその重さを減じてきていると言ってもよいでしょうか。とにかくこのことが一番引っかかったことでした。

 二つ目は、これと関連してのことだと思いますが、みんな居場所がないんだなぁと。特に学校を舞台にした作品に顕著に現れていたと思います。いろんな人間関係があって、小さい、あるいは大きい事件が起こりますが、結局のところ「居場所」探しであることが多いように思われました。自分探しと通じるところではありますが、それにしても、今、これほどに自分の居場所を見つけられない、あるいは居場所がなくては生きていけないほどに追いつめられているのには恐ろしさを感じます。傷つきやすく生きることに自信をもてない登場人物が多く、見つけた居場所も小集団の中の、ある意味不安定で暫定的なものであることが、より深刻さを感じさせました。

 三つ目は、これまた前項と関連するのでしょうが、どうにも扱われている世界が狭く感じられることです。例外的な作品もありましたが、素材や世界や話の展開や結論(?)的なものを含めて、似通った作品が多いのではないかと思いました。最近の全国大会は見てないので違うのかもしれませんが、地区や県大会でも、世界が似通ってきています。当然、高校生の日常から離れない方が、演じやすく、わかりやすく、みんなの問題になるという点を割り引いても、もう少し、日常の生活と離れたところからの作品や支離滅裂、めちゃくちゃ、暴走しっぱなしという作品があってもいいのではないかと思います。また、世界が狭いと関連することで、不徹底さが多いように見えました。世界が狭くても、そこを徹底的に掘り抜いていけばぽかっと別の所へ出て、私たちを思いもかけないところへ連れて行ってくれる者だと思います。ところが、せっかく途中まで快調にとばしながら、残り四分の一あたりになりだしたころ、あれ、あれれと思わせる展開になる作品がよく見られました。どうして、そこでまとめるのと。高校演劇の悪い癖でしょうか、こじんまりとまとめてしまう。破綻しても徹底的に突き詰めていけば、狭い世界から抜け出せるはずなのに、変に良識的にまとめたり、いい子になったり、お説教くさくなったりして、世界を更に狭めてしまう。そういう傾向が見られました。コンクールを意識しているのかもしれませんが、居場所はそんなに簡単には見つからないものではないかなと。では居場所見つけるまで更に徹底的にやればいいのにと。完成度は高いけれどもそれが逆に作品の可能性を殺しているのではと思ってしまいました。

 そうして、今まで上げた点すべてと関係していると思いますが、多様性が見られないことにある意味危機感を覚えました。扱われる素材や手法に多少違いは見られますが、それでも、全体を通すと高校演劇ってこんなに狭かったかなぁと。うまく言いにくいのですが、作品の方向や世界にバラエテイーをあまり感じられませんでした。確か以前はもっとばらけた感じでそれぞれ勝手にやっていてどうよこれはっていう作品が多かったように思われます。コンクールである以上ある意味冒険はしにくいんでしょうが、もっともっといろんな試みをしていいんではと痛切に感じられました。これは県大会レベルでも最近見られることで、高校演劇の可能性がやせていってるのかなぁとも深刻な思いに駆られてしまいます。もっとも、いくつかは可能性を見せてくれたところもありましたが、もっともっと違う可能性を見たいものだと。

 勝手なことを申しましたが、老婆心というかよけいなお節介かもしれません。けれど、ある程度高校演劇に関わったものとして、残り少ないことでもありますし、言っておかねばということでご容赦ください。

 では、各校の作品について。スペースの関係で簡単になります

『サバス・2』
 秩父農工科学高等学校
 二重の本歌取りの作品として観ました。役者ががんばっていました。その分脚本の無理が目につき、特にラストの処理はきつかったように思いました。装置はパワフルで存在感があり世界を構成していましたが、ではその装置をきちんとつかえていたかというと少し疑問が残ったのは否めません。飾りとしては存在感があったのですが、それ以上ではなかったのではないかと正直思いました。この作品がしょっぱなにあったのは象徴的で生と死の壁の薄さをよく表現していたと思います。

『全校ワックス』
 甲府昭和高等学校
 個人的にはすごく好きな作品です。居場所をもとめて、偶然の関係性で集まった生徒たちが、それぞれの関係と居場所をあやういながらも構築していく。今の高校生の姿をよく表現していたと思いました。告白ゲーム? のあたりで余計な事がはいったのは残念ですが。でも、シンプルで、装置もよくその役割を表現していたと思います。いいですね。

『学割だからいいのよ』
 八王子東高等学校
 正直言いましてストーリー派の私としては苦手なタイプでした。表現しようと言うことは十分伝えていると思います。ただ、身体の動きというか練度が不足していて、リズムが今ひとつ軽快に転がっていかないなと思いました。役者の技が必要なお芝居ですので、その点が惜しまれると思います。ただ、脚本的には少し理につきすぎたという不満がありました。構成を整理しすぎているという気がします。

『三月記 〜サンゲツキ〜』
 三刀屋高等学校
 最初はなんだか懐かしい高校演劇を観ている気分でしたが役者のがんばりに引かれて観ているうたになかなかどうしていろいろ仕掛けているのに感心しました。ただ、どうしてもこの先生が自殺するだけの動機が納得できませんでした。現職の教員である事にもよるでしょうが、唐突なラストを納得させるためには、根幹であるだけにもう少し脚本の仕掛けがいるのではないかと思います。この先生など甘いよと思う信じられない悲惨な先生いっぱいいます。それだけに脚本の詰めが気になりました。装置の工夫やことば遊びは大変楽しませてもらいました。

『君死にたまふことなかれ』
 滝川第二高等学校
 素材に変化があり、漫才も大変楽しめました。舞台転換も工夫されておもしろかったと思います。

 ただ、核が芸と戦争の衝突である以上、戦争の部分の甘さが気になりました。全体に、戦略かもしれませんが登場人物がステロタイプで、下手の部分は気になりませんが戦争の部分はやはりマイナスに成ったと思います。検閲官と民衆の態度に特に感じました。無理にシリアスにする必要はないけれど、戦争の部分をもうすこしリアリティーをだせればなと思いました。

『木』  福翔高等学校
 よくもあしくも高校演劇の王道をいっている作品であると感じました。その分、ご都合主義や描写の薄さや、教訓的なところが気になりました。もう少しやりようはあるのではないかと思いました。役者は一生懸命やっているだけに、もったいない思いもあります。ラストにはあまり思い入れをしないほうが印象的ではないかと。ラストが何回かあったように思えます。脚本を整理するともっと素直ないいお芝居になると思いました。

『ラスティング ミュージック』
 釧路北陽高等学校
 二台のピアノが印象的でした。その分逆につかいすぎてインパクトが薄れました。欲が出たんでしょうか。キャラクターやストーリーはありがちですが気持ちよい作品として受け止めました。ノーベルさんのばかばかしさをどうせならもっと徹底させてほしいところです。変にまとめない方がもっともっと良くなるのではと思います。この作品もそうですが、そんなにつながっていないと不安になるんだなあと生徒の頃ひとりで強がっていた自分を思い出してしまいました。余計なことですが。結構気に入った作品です。

『ひととせ』 同志社高等学校
 ひとりで舞台を支え続けたことにまず驚きました。なかなかできることではないと。脚本的にもシンプルでありがちですがラストが良いですね。あれだけ思い入れのあったわりには、文化祭以降すこし芝居への執着が薄い気もしましたが、今の時代かなと。ただどうしてもひとりだと同じパターンの繰り返しになるのでそのあたりの脚本の工夫があれば更に良かったのではないかと思います。予想を裏切る展開がほしかったのはちょっと欲張りでしょうか。がんばりすぎて、観客のことまで気が行っていない所もありましたが、すっきりしたお芝居だったと思います。

『あすべすと』 城西高等学校
 今大会で一番異色というか我が道を行った作品だと思います。こういう我が道を行く作品がもっともっとあらわれれば高校演劇も豊かになるとおもうのですが。とにもかくにも運動会していたの一語でしょうか。それ以上でも以下でもなかった気がします。役者ががんばっていました。タフですね。でも、身体の練度は欲を言えばもう少しほしいところです。まあだらだらやっているというのも悪くはないですが、全部それだけでは観る方は疲れますし。台詞はまあいいでしょう、コラージュを作り上げるには叫びすぎてわかりづらかったです。あと装置のペットボトルは(-_-)ウームでした。音楽のカットアウトの多用は台本指定にもあったように結構効果的でした。いらいらと不安感をよく醸し出していたと思います。

『生徒総会06 』
 青森中央高等学校
 すごく訓練された完成度の高いお芝居だったと思います。逆に言うと、それが観客にとってあまり良くはなかったのではないかと思います。額縁のむこうがわで観客を置いてけぼりにしているような感がありました。難しいですね。観客の反応は結構良かったのだから、こういう感じは理不尽のように思われるかもしれませんが、でもそうでした。自分たちで自己完結していると感じました。脚本についてはどうしてまとめるのかなーということとまとめ方に疑問がありました。あそこまでやるならなぜ総会自体をぶっ壊さない。まとまるんなら最初からやるなよーと。正直説教されてる気分で、予定調和ではやはりきついのではと。

『死神』 愛知高等学校
 愛すべきしょうもない作品だと思いました。馬鹿にして言うのではなくて、いろいろ欠点もあるけれどなぜかほっとしてしまいます。こういうのも高校演劇の良いところですね。許されてしまう。

 落語を基にしたこの作品は、結局、最後のまったく不条理であっけない主人公の死がポイントだと思います。であるならば、それまでの手続きを慎重に組み立てていかなければ成りませんが、多少雑であったと思いました。死神をだますポイントの部分もけっこう簡単に流してしまったり、キャラクターがあまりにも類型的でうーむだったり、テンポが悪かったり、技術的にまだまだ訓練されてなかったり、いろいろとありますが、けれどなんと言っても救いはほのぼのしてしまったことです。もすこしブラックの味がでればもっともっと魅力的な作品になると思います。

(高知県立安芸桜ヶ丘高校)

 多くの方々の支えで成功した今大会で、全上演作品を見させていただいたことに感謝します。

 全国の高校演劇部員が「こういう舞台を自分たちも目指したい」とする作品を選びたい。そんな思いを持って臨んだつもりでしたが迷うばかりでした。部員から「先生が初めに良いといった作品では上に行けないのがジンクスです」と言われているような顧問ですのでお許し下さい。無事に幕を降ろすのに精一杯だった上演側の時とは違い、見ることに専念してみるとそれぞれの作品が作られていくまさに現在進行形の所で見られたらという思いをあらためて持ちました。様々なお約束事の中で行う以上、それも含めて全国大会なのだと承知はしているのですが…。

『サバス・2』
 心地よい音楽と照明で始まり、こだわりが見られる大道具が舞台の展開の中できちんと生かされていた。若干の混乱は感じたが、「見える」「見えない」を使って観客を引っ張っていくことにも成功していた。キャストの演技や相撲部での男子部員の贅沢な使い方などにも、演劇部全体の力量が感じられた。ラストは方向が見えないままに突き放された気がして、もやもやとしたまま取り残された。携帯を通して唯一登場する大人であるキャロが妙に気になった。

『全校ワックス』
 素舞台で始まり、出てくるのは掃除道具と段ボールのみ、キャストも全員体操服という大胆さにまず驚いた。しかし、照明・音響・演技がよく計算されていて、却って見やすい舞台となっていた。舞台上に二人残してそこにいない人間の話をするパターンや「告白ごっこ」が進む中で、他人との関係の中でしか自分をとらえられない不安を感じた。ワックスがけをみんなが意外にまじめにやっているのに違和感があったが、「まじめ」も現代の高校生の姿かもしれない。

『学割だからいいのよ』
 これも道具らしいものはほとんどなく、鉛筆とキャストの体を使った遊びめいた演技・良く計算された人の配置や動きが興味ある舞台を作っていた。小学生の格好や仕草をしながらセリフは高校生の現実という図式は、受験という言葉では括れないもどかしさのようなものを感じさせた。舞台全体が非常によく考えて作られているだけに、舞台を作り始めたときには明確に位置付けられていた筈のものが見失われたり中途半端に残されたのではないかと感じた。

『三月記 〜サンゲツキ〜』
 紅白幕の前に椅子があるだけというセットが、紅い布が取り払われると一瞬にして卒業式前日の答辞練習から追悼式の弔辞へと変わるという舞台だった。キャストの演技も軽快で客席を惹き付けていた。死後にまで生徒を自分のエゴイズムに付き合わせてしまう教師に対する生徒の優しさが胸には落ちなかった。「辛いのを隠して強がっている」のは教師も生徒も多分同じ筈で、生徒ばかりが妙に優しいのを納得させてくれる演出が欲しくなった。

『君死にたまふことなかれ』
 お笑いの世界を太平洋戦争の最中に設定し、生への思いだけでなく姉弟の愛までも描こうという意欲作だった。絶妙の味を出していた姉弟のキャストだけでなく、セットや小物等いろんな所に工夫や努力がされていて、部員全部で舞台を支えていることがよくうかがわれた。ただ、自分たちが知らない世界を一生懸命に描こうとしているという姿勢に逆に甘さや類型性が見えてしまったように感じた。もっと居直ってしまう演出の方が良かったのかもしれない。

『木』
 将来の夢や友情、そして成長ということをしっかりしたセットも含めてとても丁寧に描いた作品だった。作・演出の人を中心にしてみんなで考えながら作ってきた作品を、キャスト・スタッフ共に気持ちよく進めているのが感じられる舞台だった。演技だけでなく、照明・メイク・場面処理等含めて「これがいい舞台」というモデルに忠実に作られているようで、もっと自由に楽しんでもらうと見る側も登場人物一人一人に自分を重ねながら楽しめたのかもしれない。

『ラスティング ミュージック』
 全くの偶然ながら、話の内容としては「木」と重なる所の多い作品が続いた。こちらは下手に置かれたピアノに存在感があり、生演奏も含めピアノを中心にしてうまくまとめられていた。「ねこふんじゃった」にまつわる話も人との繋がりを求める思いと響いていた。脇役の筈のノーベルに魅力を感じて彼女の物語を聞きたくなってしまったのは、ピアノと上手袖を結ぶ直線上に限られてしまったキャストの動きに代表される舞台全体の単調さによるのかもしれない。

『ひととせ』
 「人がいない…」と嘆いて見せながら、それを楽しんでしまっていた彼女がとても魅力的だった。生身の彼女が舞台に存在し、正に現在進行形として舞台が進んでいたし、観客をみんな味方にしてしまう力があった。あり物を並べたと思われる道具も、役者が自分で枝をつけ替えてしまう荒技も、ピンで追いかける照明も、気になるどころか潔さに見えてしまった。この作品を高く評価することに何の異論もないものの、報われないなあというひがみも少々…。

『あすべすと』
 間断なく浴びせられる刺激的な言葉にドキッとさせられ続け、次第にそれについていけなくなったとき、それまで窮屈に見えていたキャストがむしろ解放されているのではないかと感じさせられた。全てが仕組まれていると分かっていても、舞台上の言葉や肉体表現を日常レベルとは違う所で捉えさせられた。キャストはそんなたくらみを十分承知の上で加担していたように私には思われた。

『生徒総会06 』
 真正面からの討論劇というわけではないが、異なる意見を戦わせる中で共感を生み出していく姿を幾つかの見せ場と達者な演技で描き、部としての力量を感じさせる作品だった。99年の同校作品からどう変えてくれるのかという私個人の勝手な期待は別にして、ツボを得た演技で客席が沸いても微妙な違和感があったのは、「ひととせ」とは対照的に舞台が現在進行形で動いていないと感じさせるものがあったからのように思われる。

『死 神』
 落語の世界を悪徳金融業者やフリーター青年を登場させて現代に置き換えた作品だった。遠近を誇張したセットや白塗りメイクなど、作り手のこだわりを感じさせ、特にラストの蝋燭の灯の場面には思い入れがあるのが見えた。ただ、ラストを見せるための意図があったとも感じられたが、セリフや仕草をある型にはめたり抑えようとしているところがあり、それがおもしろさを殺した面があったのではないか。

  (愛知県滝高校演劇部顧問)


「感劇」の4日間を終えて
四方 香菜
 青森大会から一年、今年の全国大会の舞台は京都でした。照りつける夏の太陽のように、明るく元気な一八名の講評委員が全国から八幡市に集結しました。

 今回が第二回目となる生徒講評委員会。この委員会では、各上演作品をただ鑑賞するだけでなく、その作品から何を学んだり感じたりしたのかについて討論し、そこで出た意見を元に講評文を発行するという活動を行ってきました。

 「自分たちの講評活動を通じて、多くの人々に、高校生が演劇を通じてどんなことを伝えようとしているのか深く考えてもらいたい!」と目標を掲げて活動してきました。しかし、実際に講評活動にたずさわってみて、一番高校演劇の奥深さを感じさせられたのは私たち講評委員だったと思います。

 今年度の上演脚本は大半が生徒および指導教員による創作脚本でした。その一つひとつに命の大切さ・友情・現代社会に対する訴えなど、各上演校の思いが詰め込まれていました。また、テーマ自体は似ていても描き方によって、その学校独自の伝え方で私たちの胸に思いをぶつけてくれました。高校生や、いつもその周りにいる先生方だからこそ創り上げることのできたステージだったと思います。予選大会を勝ち抜いてきたこれら作品に出会い、講評をさせて頂くことによって、同じ演劇にたずさわる人間、そして今を生きる高校生の一人として、普段は感じることのできない気持ちに出会うことができました。上演校の皆さんには、「本当にありがとうございました」と素晴らしい作品を見せていただいたことへのお礼の言葉を伝えたいです。

 また、四日間もの長い間、同じ屋根の下で全国の演劇が大好きな高校生の皆さんと過ごせたことで、自分の中の「演劇」が大きくかわったような気がします。討論しているとつい次の上演時間も忘れて議論をし続けてしまったこと、宿舎では講評の仕事が終わっても気がつくと演劇の話ばかりしていたこと、最終日の夜には講評活動を振り返って深夜まで語り合ったこと……思い出せば思い出すほど演劇にのめりこんでいた四日間だと思います。全国に演劇仲間が出来たという心強さを感じるとともに、私は本当に演劇が好きなんだと心の底から実感できました。これからもし私達が演劇とは別の道を歩むとしても、こうして過ごしたあつい夏の思い出は、かけがえのない青春の一ページとしていつまでも胸に残り続けるに違いありません。

 私達の書いた講評文はインターネット上で全国に向け、公開されています。この講評文を一人でも多くの方に読んで頂き、上演校やスタッフとしてこの全国大会に参加した生徒だけでなく、高校演劇に携る全ての高校生達の熱い思いを感じていただくことができればこれほどの幸せはありません。

 最後になりましたがこのような素晴らしい機会を与えてくださった、演劇連盟の諸先生方に深くお礼申し上げると共に、これからも末永く生徒講評委員会が開催されますことを心からお祈りいたします。

 (生徒講評委員会 委員長
    立命館高校3年生)

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