■ 審査員講評 | |||
新しい才能と時代の反映
― 京都大会の審査を終えて ―
扇田 昭彦
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面白く刺激的 高田 一郎 |
高校演劇、
甲子園よりすげえ 前田 司郎 |
【舞台美術講評】 暑い、それも京都ならではの猛暑の中で、さらに熱いものがあった。今回の京都大会である。 会場になった八幡市文化センターは由緒ある石清水八幡宮の麓にあり、僕は毎日の行き帰りに神社のある山の頂を眺めながら歴史のオーラを浴びたのであった。そういえば古代ギリシャ劇場も、側に神殿があったなあ、などとギリシャで観た演劇フェスティバルを思い出した。規模、内容などは様々で異なるが、演劇を称える点では、全く同様である。会場に入るために行列をしている観客の人々を見て演劇祭に参加するという独得の心の高揚を感じるとともに、高校生たちが、どんな上演を観させてくれるのかと期待の気持ちも、ぐんぐんと膨らんでいく。 期待は、まったく裏切られなかった。予想以上に感動させられるものであった。 今回、全国大会の審査員を仰せつかったのは、ひさしぶりの事である。何年か間をおいて観た高校演劇のレベルは見違えるほど向上したと思った。せりふ、演技、舞台技術など、どの点を採り上げても基本をしっかりと踏まえた上での表現であることが明らかに示されているのには感心した。これは高校演劇が長年続いてきた上での貴重な積み重なりの成果であり、またその間の顧問の先生方の努力と方向性の正しさを確実に証明していると感じた。ただ単なる、その場の思い付きや、底の浅い表面上だけの面白さを狙った表現が、まったく見られなかったのは、全国大会であるという、選り抜きの代表が揃っているとはいえ、大変好感のもてるものであった。 私が専門とする舞台美術の面からみても同じことがいえた。舞台空間に対する意識は、以前に比較して数段飛躍していた。従来は舞台を額縁のある絵画としてとらえ、舞台装置で絵画的に平面的に装飾するというものが主流であった。それが今回は、舞台を立体的な空間として把握し、舞台装置を空間を立体的に構成する材料、要素とする姿勢が見られた。この方向は舞台空間のみならず演劇の上演自体を現代的な表現に導く結果をもたらしたと思う。以上の視点から、上演作品を観てみた。 『サバス・2』舞台全体が見えた瞬間、よくも運び入れたと思うほど沢山の物体が圧倒的に目に入ってきた。広い舞台を密度ある空間に、短時間という悪条件でまとめ上げた技術力は非常に評価できる。乱雑さが、われわれの、この現代の社会を象徴しているようでもあり感覚的にも優れていると思われた。 『全校ワックス』前の密度のある舞台の直ぐ後に現れた、黒幕だけのシンプルな構成は、とても新鮮に感じられた。この、舞台装置の主役はワックスで拭かれる床であった。ただ一つ持ち込まれたモップ立てがポイントとして効果を出す。労働作業と会話が巧みに関連し、演技、せりふが舞台空間を構成した。 『学割だからいいのよ』続く、この舞台も黒幕だけの背景の前に身体表現とせりふで展開される。赤いランドセル、巨大な鉛筆などが印象的に現れ、現代的な遊戯感覚はフレッシュで面白く今日的な若々しい舞台空間が展開され好感が持てた。たゞ感覚的な表現に、いまひとつ、あゝそうかと納得する裏付けがほしかった。 『三月記 〜サンゲツキ〜』卒業式の紅白の幕が、葬式の白黒の幕に転換する仕掛けは、なかなかのアイディアだなと感心。ここで演じられた教師像は、私にとっては衝撃的であった。世代は変わった、もう、かなわない。それならば舞台美術も、もう一歩ふみ込み、優等生ではない破れかぶれのものが作れるチャンスであった。 『君死にたまふことなかれ』自分が体験したことがない世界を表現することは難しい。戦争中の大阪の寄席を中心とする舞台。真剣に取り組んでいる態度には賛成。時代考証、寄席の舞台や楽屋などの構造、さらに舞台転換など技術的にも調査は山ほど。別の方法として抽象的表現があるが簡単には出来ない。勉強、努力です。 『木』前の作品が、過去の時代や、寄席という特別の世界をあつかっていたのに対して、これは、自分たち自身の世界であり、場面も教室という毎日のように見て知っている場所である。かえって難しいかもしれない。壁に題名よりか木の材質を使ったのは表現となる。樹木のスライドは説明的かも。 『ラスティング ミュージック』黒の背景にピアノと学習机で構成している。劇の内容が比較的自由なのだから、机の配置なども音楽教室にこだわらず自由で不規則な構成の方が、ふさわしかったと思う。突然、持ち出される、ノーベルの座る椅子は、彼ら、仲間たちの独自の世界を垣間見せ、手作りの感じとともに効果を上げた。 『ひととせ』演劇部の部屋という身近な場面を非常にリアルに造作しているのだが、入口のドアを壁とともに省略しているのは知的な作戦として成功。無対象のドアを開けるパントマイムから始まるので、その後窓外の枝を取り替えるなど、写実でない演技も不自然なくみせる。小道具とのセンスあり。 『あすべすと』カラフルな衣裳の演技者たちが、これも色彩あふれるロープやダンボール、布などを自由にあつかい、広い空間を自由に駆けまわりながら展開していくエネルギッシュな舞台であった。ただ、華やかに構成演出された様式と、社会的な内容とが必然的に結びつく様相の的確さが、今一つ欲しかった。 『生徒総会06』大勢で総力を挙げて立ち上げた若々しさが舞台空間いっぱいに、あふれる上演であった。対立する感情が高ぶった時に思わず青森のことばのニュアンスが発せられるのは独自の魅力。残念なのは順風すぎた。実力に対して易しく処理したようにみえてしまった。一段高い壁に若さをぶつけてほしい。 『死神』演劇に対する、まじめな姿勢、一生懸命さに好感が持てた。しかし、それが、この作品にふさわしいかったかといえば問題である。作品の持つ軽快なテンポに合わせて、もっと自由に楽しめばよかった。事務所の場面も死神が出没するのだから現実から離れてもよい。各自が面白がってやれる作品だ。 以上、十一の作品を、僕自身、十二分に、たのしませてもらった上に思わぬ刺激をも受けたのであった。会場での仕込み時間の短いこと、とくに照明作業は大変だ。会場が舞台、客席ともに広く、せりふ、音響の調整も容易ではない。数々の困難な条件をあげれば切がないと思う。それらを乗り越えての上演と考えると成果も大切であるが、その過程の方に、さらなる貴重なものが、あったに違いない。 (舞台美術家) |
文字数の関係で挨拶、丁寧表現など、割愛させていただきます。今大会は本当に素晴しかった。感動した。これから書くことは全て私見です。僕の考えでしかないので、適当に聞いてください。 『サバス・2』 ただ自殺の扱い方が、衝撃度を優先し、その深さを見れていない。狭い舞台の上に乗せるために巨大なテーマを矮小化している。一部をそのまま舞台に乗せ、その大きさを観客に想像させた方が良い。観客の想像力を推し量り信頼する事も必要ではないか。 『全校ワックス』 告白ゴッコのくだりは必要ない。血の通ってない苦悩を出すことで、せっかく作り上げた繊細なリアルが、壊れてしまった。やるならとことんシュールに、あの、なぜか紙ふぶきを常備しているエピソードのようなものを重ね、もっとわけのわからない世界に連れて行ってほしかった。 『学割だからいいのよ』 この公演を成功させるには、身体のことをもっと考えるのと、内容をもう少しだけロジカルにする必要があったと思う。 『三月記 〜サンゲツキ〜』 生徒の目の前で学校から飛び降りといて「ありがとう」もないだろうと思う。無理やり感動を狙ってきたなという印象。 生徒の目の前で飛び降りたのか? その問いに対する回答にこそ、人間の真実のようなものが隠されているのだから、そこを掘り下げてほしかった。 『君死にたまふことなかれ』 検閲官を作家の都合に合わせて悪人にしてしまったことで、浅い話になってしまった。検閲官だってあの状況で「漫才をやらせてください」などと言われれば心が動くだろう。全ての人間が、その人なりのリアリティーを持って生きている事を忘れないように。 『木』 遊びの様なものにこそ、作り手の無意識が宿ると思う。遊びの要素を洗練させて、それだけで構成されたものが見たかった。俳優たちの遊びはもっと観ていたかった。 『ラスティング ミュージック』 俳優を一つの演技方に合わせて訓練するのではなく、俳優に合わせて演技方を作っていくべきだ。俳優たちの個性的な魅力を引き立てると良いと思う。 『ひととせ』 演技に関しては、技術を信じることも重要だが、それを疑うこともまた重要である。少しだけ、疑う必要があったかも。難しいことだけど。色々な人が助言のようなことをしてくると思うが惑わされずに好きなようにしてほしい。 『あすべすと』 しかし、俳優たちの活き活きした顔や演技をみていると、そんなことを思う自分が卑屈に思える。あれだけの数の生徒が小難しい芝居を真剣に楽しげに演じている姿は確かに美しいのかもしれない。僕は困惑した。僕らの演劇の目指すものと、高校演劇の目指すものの、間でゆれた。僕が教育者だったら別の見方をしたかも知れない。 『生徒総会06 』 『死 神』 (作家・劇作家) |
ゼロから生みだすことの
途方もない魅力に とりつかれて欲しい 高泉 淳子 |
高校生パワー、
京都の夏 川口 多加 |
今回はじめて、そしてじっくり、 "高校演劇"を拝見しました。見ている間の三日間、見終わってからも、いろいろなことを考えさせてくれました。近頃こんなに演劇について考えたことがあっただろうかと思うくらい、暑い真っ盛りに真剣に考えたのです。 全国大会に参加した各高校は、想像していた以上に水準が高かった。大学生以上、いや社会人以上の完成度を持ち合わせた高校もあったように思います。それには感心しました。と、同時に、私は少々がっかりもしました。 私が今回楽しみにしていたことは、今の時代を生きる高校生は表現というものをどう捉え、演劇というものをどう手玉に取り、見せてくれるのだろうか、ということ。 今年の春、上野の美術館に高校生の美術展を観に出かけました。どの作品も斬新で、力強くて、刺激的でした。表現の基本的なものの上に彼らのオリジナルな新しさがそこにはあった。未完成でも、向っている矛先が揺れていながらも、しっかりとそこには彼らが描こうとする表現があったのです。 もちろん美術と演劇は表現形態は違います。しかし、音楽でも、絵画でも、映画でも、?表現?の根底にあるものは同じなのです。それは何もないところに、そこにゼロから立ち上げるということ。これは並大抵のことではありません。けれど何もないところに、何かを生みだすというのは、途方もない驚きと感激があり、果てしなく面白い作業だと思うのです。 今回の作品を見て残念に思ったことは、新しさを感じなかったということ。作品も、テーマも、構成も、役者体も、意外とみんなオーソドックスなのに驚きました。私の高校時代はもう三十年程前ですが、なんか訳がわからなくても、新しいものを作りたいという欲求だけはあったような気がします。今の新しい時代を生きている高校生は、どんなドキッとするような、スリリングな作品を見せてくれるのか期待していたのですが…。 それにはいろいろな要因があるかと思います。作業の現場を見ていないからわからないのですが、ひとつには顧問の先生と部員の関係にあるのでは…。どうしても作品が古く感じてしまうのは、演劇概念が私が20代の頃に感じたものに何故か近いとするならば、それは私と同じ年に近い先生の概念ではないでしょうか(憶測ですが…)。高校演劇の場合、顧問はあくまでもプロデューサー的存在であって欲しい。部員たちがやりたいことを、なんとしてでも具現化してあげる存在。「そりゃあ無理だろう」というやっかいなことも、あれやこれや頭をひねって、近い形で実現してあげる存在。演出家、脚本家ではなくて、プロデューサーになるべきだと思うのです。音響が多少変でも構わない。ライティングが未熟でも構わない。それが彼らのやりたいことの一環であれば、新しいオリジナルな作品の第一歩になるかもしれないのです。 音の使い方も、ライティングもどこかで見たことのあるような、なんか無難なおさまり方で、ちょっとがっかりでした。それがもしも顧問のせいでそうなってしまったのであれば改めなければならない。生徒たちのせいであれば、顧問はもっとかき乱さなければならない、と思うのです。 『君死にたまふことなかれ』、賞には選ばれませんでしたが、私はこれは最もよくできた作品だと思います。演劇鑑賞会などで全国で上演しても充分に通用する。キャストもスタッフもひとつになって頑張っていたと思いますし。なのに何故入賞できなかったのか? それはテキストがうまくまとまっているから、そのお話を追ってしまう。話を追っていくと、どの辺で彼らはこの話を選んだんだろうということが気になってくる。そしてそのうちにストーリーの構成の単純さがひっかかってくる。しっかり演じきっているだけに、そういう印象を与えてしまうのですね。どういう過程を踏んでこの作品が出来上がったのかわかりませんが、もし生徒たちの強い要望でこの作品が生まれていたとしたら、そんなことは気にならなかったであろうと思うのです。私が高校生の時よりも、今の方がはるかに戦争は身近な問題であるし、ここのところ漫才ブームだし、それを今を生きる高校生が体験していない時代を借りて、戦争に対してやりきれない思いを表現するのであればこれは大きな意味がある。だけど形しか見えてこない。お話以上の思いが伝わってこない。それが残念でした。 これとは対照的に『木』は、ほんと生徒たちの中から生まれて創り上げたのだろうと伝わってくる作品でした。藤井絵里さんのこの本は、まだ未完成であるけれど、素直に書き上げた好感が持てる作品だと思います。役者ひとり、ひとりにあて書きしていて、役者もそれを体で精一杯表現しようとしていて。あとは一本の筋道に、どれだけ枝葉を作って寄り道するか、それが演劇的行為であるということを知って欲しい。 『全校ワックス』はテキストと役者が、とてもバランスよく仲良くなっていて、心地良い作品に仕上がっていたと思います。何が起こるわけでもない設定に、人物たちがとりとめのないお喋りで小さなドラマを創り上げていく。設定の解釈が容易だから、演者たちも伸び伸びと遊べる。顧問の先生はセンスあるテキストを生徒たちに与えたと思う。このテキストを叩き台にして、生徒たちに委ねてみたらどうだっただろうか。たとえテキストよりも荒くなったとしても、とりとめないものになったとしても。多分、これ以上のワクワク感を持つ作品になっていたのでは。 書き手がまとめようとするがために、後半必要のない、この作品には似つかわしくない盛り上がりがあって、残念。それはきっと、生徒たちの感覚が生きてきて、テキストに頼らない表現力がついてきたからなのでしょう。テキストを彼女たちに委ねたら、これは間違いなく、最も優れた作品に選ばれていたに違いないと思うのです。 『学割だからいいのよ』は、台本を読んだ時、その言葉の勢いとスピード感に驚きました。どんな風な舞台なのかとても楽しみでした。だけど言葉と身体が一致してなかった。表現したかったことと演じていることにちぐはぐさを感じてしまう…。多分この作品ができて間もない頃は、周りを圧倒するくらいの勢いがあったのではないでしょうか。予選の時のメンバーとは違うメンバーでの上演とのこと。集団創作で創り上げていくスタイルの作品の場合、メンバーが変わるというのはなんともむずかしい。新しいものを生みだすことに挑戦していただけに残念です。予選が前年の秋で、全国大会が翌年の夏というこの大会のシステムは問題があるのでないでしょうか。 (役者・劇作家) |
「高校生らしさ」という言葉を聞くことがある。ルーズソックスが流行した頃、「もっと高校生らしい服装をしなさい」と言う教師に対して、当の高校生は「ルーズソックスって高校生しか履いてないですよ」と反論していた。高校演劇だからこうあるべきというスタイルなどないはず。今年の京都大会はバラエティーに富んだ舞台を観ることができて興味深かった。弱輩者の勝手な雑感ではあるが、以下に感想を述べる。 埼玉県立秩父農工科学高等学校 『サバス・2』 山梨県立甲府昭和高等学校 東京都立八王子東高等学校 島根県立三刀屋高等学校 滝川第二高等学校 福岡市立福翔高等学校 北海道釧路北陽高等学校 同志社高等学校 徳島県立城西高等学校 青森県立青森中央高等学校 愛知高等学校 (浜松海の星女学院) |
観客席から
山内 一昭 |
現在進行形で
見られたら… 高 橋 茂 |
【全体の感想】 思いもかけない機会をいただき、贅沢で熱い楽しくとも苦しい三日間を過ごさせていただきました。 一観客として、楽しみ、今の高校生の表現がここまで進化していることに感動しながらも、一抹の不安も感じ少し複雑な気持ちを抱えながら帰ってきました。観客席から見た感想になりますが、感じたこと思ったことを少し記しておきたいと思います。 十一本の熱のこもった発表を見ながら、完成度の高さに驚かされつつ、微妙な違和感というか、ひっかかりが忍び寄るのを正直感じざるを得ませんでした。一校だけならば、ああそうねと流すこともできたのですが、何校もに見られると、今の高校生のおかれている場が浮き彫りにされ、演劇にとどまらず重い問題として迫ってきた感じです。逆に言うと、演劇であるからこそ、目に見える形で浮き彫りにされたとも言えましょう。全国大会の場では時間も限られ、考えもまとまっていませんでしたので、せっかくの場をいただきましたので気がついたことをいくつか申し上げておきたいと思います。 一つは、今の高校生にとってはこんなにも「生」と「死」の壁が薄いのかということにあらためてショックをうけました。親近感にあふれているというか、お隣感覚で「死」はそこにいるようです。「死」が何らかの形で関わる作品が多かったことも、もちろんですが、「死」の訪れが唐突にしかも簡単に訪れ、登場人物たちが抵抗感がないのに引っかかるものを感じました。そんなにあなた達は死にたいの。と言いたくなるほど、軽々と死が訪れる。素材や方法のバリエーションはあっても、通底するのは壁の薄さです。死はドラマチックにならざるを得ませんから以前から高校演劇ではよく扱われる訳ですが、この「薄さ」は最近のものだろうと思います。死が軽いのではなく、壁が薄い。それなりに悩みながら死を選ぶには選ぶのですが、それが単なる選択肢の一つのようになってしまっていることにたまらないものを感じます。もっとも悩み自体も死ぬほどのことでもないと思いますが、逆にそういう軽いと思われる悩みがもう軽くなっていないことを示すのかもしれません。生がその重さを減じてきていると言ってもよいでしょうか。とにかくこのことが一番引っかかったことでした。 二つ目は、これと関連してのことだと思いますが、みんな居場所がないんだなぁと。特に学校を舞台にした作品に顕著に現れていたと思います。いろんな人間関係があって、小さい、あるいは大きい事件が起こりますが、結局のところ「居場所」探しであることが多いように思われました。自分探しと通じるところではありますが、それにしても、今、これほどに自分の居場所を見つけられない、あるいは居場所がなくては生きていけないほどに追いつめられているのには恐ろしさを感じます。傷つきやすく生きることに自信をもてない登場人物が多く、見つけた居場所も小集団の中の、ある意味不安定で暫定的なものであることが、より深刻さを感じさせました。 三つ目は、これまた前項と関連するのでしょうが、どうにも扱われている世界が狭く感じられることです。例外的な作品もありましたが、素材や世界や話の展開や結論(?)的なものを含めて、似通った作品が多いのではないかと思いました。最近の全国大会は見てないので違うのかもしれませんが、地区や県大会でも、世界が似通ってきています。当然、高校生の日常から離れない方が、演じやすく、わかりやすく、みんなの問題になるという点を割り引いても、もう少し、日常の生活と離れたところからの作品や支離滅裂、めちゃくちゃ、暴走しっぱなしという作品があってもいいのではないかと思います。また、世界が狭いと関連することで、不徹底さが多いように見えました。世界が狭くても、そこを徹底的に掘り抜いていけばぽかっと別の所へ出て、私たちを思いもかけないところへ連れて行ってくれる者だと思います。ところが、せっかく途中まで快調にとばしながら、残り四分の一あたりになりだしたころ、あれ、あれれと思わせる展開になる作品がよく見られました。どうして、そこでまとめるのと。高校演劇の悪い癖でしょうか、こじんまりとまとめてしまう。破綻しても徹底的に突き詰めていけば、狭い世界から抜け出せるはずなのに、変に良識的にまとめたり、いい子になったり、お説教くさくなったりして、世界を更に狭めてしまう。そういう傾向が見られました。コンクールを意識しているのかもしれませんが、居場所はそんなに簡単には見つからないものではないかなと。では居場所見つけるまで更に徹底的にやればいいのにと。完成度は高いけれどもそれが逆に作品の可能性を殺しているのではと思ってしまいました。 そうして、今まで上げた点すべてと関係していると思いますが、多様性が見られないことにある意味危機感を覚えました。扱われる素材や手法に多少違いは見られますが、それでも、全体を通すと高校演劇ってこんなに狭かったかなぁと。うまく言いにくいのですが、作品の方向や世界にバラエテイーをあまり感じられませんでした。確か以前はもっとばらけた感じでそれぞれ勝手にやっていてどうよこれはっていう作品が多かったように思われます。コンクールである以上ある意味冒険はしにくいんでしょうが、もっともっといろんな試みをしていいんではと痛切に感じられました。これは県大会レベルでも最近見られることで、高校演劇の可能性がやせていってるのかなぁとも深刻な思いに駆られてしまいます。もっとも、いくつかは可能性を見せてくれたところもありましたが、もっともっと違う可能性を見たいものだと。 勝手なことを申しましたが、老婆心というかよけいなお節介かもしれません。けれど、ある程度高校演劇に関わったものとして、残り少ないことでもありますし、言っておかねばということでご容赦ください。 では、各校の作品について。スペースの関係で簡単になります 『サバス・2』 『全校ワックス』 『学割だからいいのよ』 『三月記 〜サンゲツキ〜』 『君死にたまふことなかれ』 ただ、核が芸と戦争の衝突である以上、戦争の部分の甘さが気になりました。全体に、戦略かもしれませんが登場人物がステロタイプで、下手の部分は気になりませんが戦争の部分はやはりマイナスに成ったと思います。検閲官と民衆の態度に特に感じました。無理にシリアスにする必要はないけれど、戦争の部分をもうすこしリアリティーをだせればなと思いました。 『木』 福翔高等学校 『ラスティング ミュージック』 『ひととせ』 同志社高等学校 『あすべすと』 城西高等学校 『生徒総会06 』 『死神』 愛知高等学校 落語を基にしたこの作品は、結局、最後のまったく不条理であっけない主人公の死がポイントだと思います。であるならば、それまでの手続きを慎重に組み立てていかなければ成りませんが、多少雑であったと思いました。死神をだますポイントの部分もけっこう簡単に流してしまったり、キャラクターがあまりにも類型的でうーむだったり、テンポが悪かったり、技術的にまだまだ訓練されてなかったり、いろいろとありますが、けれどなんと言っても救いはほのぼのしてしまったことです。もすこしブラックの味がでればもっともっと魅力的な作品になると思います。 (高知県立安芸桜ヶ丘高校) |
多くの方々の支えで成功した今大会で、全上演作品を見させていただいたことに感謝します。 全国の高校演劇部員が「こういう舞台を自分たちも目指したい」とする作品を選びたい。そんな思いを持って臨んだつもりでしたが迷うばかりでした。部員から「先生が初めに良いといった作品では上に行けないのがジンクスです」と言われているような顧問ですのでお許し下さい。無事に幕を降ろすのに精一杯だった上演側の時とは違い、見ることに専念してみるとそれぞれの作品が作られていくまさに現在進行形の所で見られたらという思いをあらためて持ちました。様々なお約束事の中で行う以上、それも含めて全国大会なのだと承知はしているのですが…。 『サバス・2』 『全校ワックス』 『学割だからいいのよ』 『三月記 〜サンゲツキ〜』 『君死にたまふことなかれ』 『木』 『ラスティング ミュージック』 『ひととせ』 『あすべすと』 『生徒総会06 』 『死 神』 (愛知県滝高校演劇部顧問) |
「感劇」の4日間を終えて
四方 香菜
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青森大会から一年、今年の全国大会の舞台は京都でした。照りつける夏の太陽のように、明るく元気な一八名の講評委員が全国から八幡市に集結しました。 今回が第二回目となる生徒講評委員会。この委員会では、各上演作品をただ鑑賞するだけでなく、その作品から何を学んだり感じたりしたのかについて討論し、そこで出た意見を元に講評文を発行するという活動を行ってきました。 「自分たちの講評活動を通じて、多くの人々に、高校生が演劇を通じてどんなことを伝えようとしているのか深く考えてもらいたい!」と目標を掲げて活動してきました。しかし、実際に講評活動にたずさわってみて、一番高校演劇の奥深さを感じさせられたのは私たち講評委員だったと思います。 今年度の上演脚本は大半が生徒および指導教員による創作脚本でした。その一つひとつに命の大切さ・友情・現代社会に対する訴えなど、各上演校の思いが詰め込まれていました。また、テーマ自体は似ていても描き方によって、その学校独自の伝え方で私たちの胸に思いをぶつけてくれました。高校生や、いつもその周りにいる先生方だからこそ創り上げることのできたステージだったと思います。予選大会を勝ち抜いてきたこれら作品に出会い、講評をさせて頂くことによって、同じ演劇にたずさわる人間、そして今を生きる高校生の一人として、普段は感じることのできない気持ちに出会うことができました。上演校の皆さんには、「本当にありがとうございました」と素晴らしい作品を見せていただいたことへのお礼の言葉を伝えたいです。 また、四日間もの長い間、同じ屋根の下で全国の演劇が大好きな高校生の皆さんと過ごせたことで、自分の中の「演劇」が大きくかわったような気がします。討論しているとつい次の上演時間も忘れて議論をし続けてしまったこと、宿舎では講評の仕事が終わっても気がつくと演劇の話ばかりしていたこと、最終日の夜には講評活動を振り返って深夜まで語り合ったこと……思い出せば思い出すほど演劇にのめりこんでいた四日間だと思います。全国に演劇仲間が出来たという心強さを感じるとともに、私は本当に演劇が好きなんだと心の底から実感できました。これからもし私達が演劇とは別の道を歩むとしても、こうして過ごしたあつい夏の思い出は、かけがえのない青春の一ページとしていつまでも胸に残り続けるに違いありません。 私達の書いた講評文はインターネット上で全国に向け、公開されています。この講評文を一人でも多くの方に読んで頂き、上演校やスタッフとしてこの全国大会に参加した生徒だけでなく、高校演劇に携る全ての高校生達の熱い思いを感じていただくことができればこれほどの幸せはありません。 最後になりましたがこのような素晴らしい機会を与えてくださった、演劇連盟の諸先生方に深くお礼申し上げると共に、これからも末永く生徒講評委員会が開催されますことを心からお祈りいたします。 (生徒講評委員会 委員長 |