■ 審査員講評 | |||
不条理と向き合う
平田オリザ |
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初出場校の活躍に拍手! 篠ア 光正 |
空間の使い方 松井 るみ |
高校演劇の先行きを危惧しているのは、私ばかりではないはずだが、今回の大会では、初出場校の活躍で新しい風を感じ、高校演劇の「時代の今を表す力」を改めて実感した。次世代を担う現役高校生が、何を尊び何を欲しているのか。未来のわが国のイメージを少し予感することができたのかもしれない。また、これまで高校演劇の代名詞のように存在した「いじめ」「自殺」「不登校」などが、小学校や中学で大きく話題にされる時代になり、高校演劇の題材から数が減ったのは理解できる。代わって主題となったのが、現代社会。この主題の交代興味津々である。 (日本演出者協会理事) |
今回初めて高校演劇の審査員をつとめたが、信じられないほどレベルが高く、とても刺激的な体験ができた。場所によって、その土地の問題がクローズアップされているのは、高校演劇ならではだと思う。全国の高校生の生の声を聞ける素晴しい時間であった。 (舞台美術家) |
「教室」に映る世界
劇世界に触れて今村 修 |
芝居の質の深化ということ 乳井 有史 |
教室って面白い! 今大会の全上演を見終えて、改めて大いに感心した。そりゃ、論理的な思考にも慣れてきたエネルギーいっぱいの男子や女子が毎日顔を合わす空間だから、色んなドラマが生まれて当たり前。喜怒哀楽、友情、恋愛、喧嘩、いじめ、出会いと別れ……。劇の題材には事欠かないだろう。にしても、こんなに世界のよしなし事が教室を舞台に描けるなんて。 全12作品の内、教室を舞台にしたものが5作品、校内を舞台にした2作品を合わせると、過半数を占めた。どれも高校生活の日常を描いているのだが、そこから見える風景がスゴイ。民族とアイデンティティーの問題、原発事故、震災、同調圧力、島の暮らし……。教室にいながら、高校生たちは実に様々な「今」を見、そして生きている。とても新鮮な発見だった。 ということで、まずは「教室・学校もの」を上演順に見ていこう。 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな) 女子にモテようと空き教室で寄席を開く、落語研究会の奮闘記。創作落語の「つかみ」から、落語ネタをちりばめた筋の運び、意外なツンデレ女子の登場によるアクセント、そして創作落語改作によるサゲと、コメディーの定石を押さえた舞台。キャラの立て方もうまい。きっと、ワイワイガヤガヤ稽古を続けながら、一人一人当て書きしていったんだな、と微笑ましくなる。男子部員の存在感が舞台を弾ませた。 確かに、社会問題などを見据えた舞台に比べると、いささか軽い感じは否めないが、それは百も承知の上で笑いに徹した潔さを買う。欲を言えば、最初と最後の創作落語と本編のストーリーをもっとリンクさせると良かったか。寄席を取るか、彼女を取るかの部分に義理と人情を重ねたのだろうが、ちょっと分かりにくい。ここがうまく行けば「チョコは欠けても、義理には欠けねえ」の名台詞がビシッと決まっただろうにと、ちょっとこだわり。 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』 電力不足のため生徒が自転車を漕いで発電しながら授業を受けるという設定が視覚的にも斬新だった。教室には次々と人とも物とも知れぬ「転校生」がやってくる。その度に電力事情は改善されるが、クラスメートは家族と共に一人また一人と故郷を離れていく。「転校生」は何のメタファーなのか。原発か?汚染廃棄物か?使用済み燃料か? 何の説明もないのが効果的だ。発表会にクラスみんなで披露するはずだった「曾根崎心中」の道行の朗読が度々差し挟まれ、通奏低音のように喪失感を増幅する。ただ、それがなぜ「曾根崎」という作品でなければならなかったのか? その疑問が最後までぬぐえなかった。 広島市立沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』 アイデンティティーを失った少女が、蓋をしていた辛い記憶に向き合うことで自分を取り戻す。現在の教室と原爆を被爆した少女の体験、そして彼女の記憶。多層の時空が絡み合い響き合って、原爆の悲惨さと体験の過酷さが浮かび上がる。クラスメートに存在を無視されたまま教室を出られない少女は、実在するのか? 記憶の亡霊か? 観客の想像力を刺激する奥行きのある構造だ。 にもかかわらず、自身を見失った理由を繰り返し言葉で説明するものだから、ネタバレになってしまった。セリフであからさまに言わなくても、力のあるドラマなのだから見てれば分かる。その方が観客としてもありがたい。 大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』 とびきり熱い舞台だった。この春卒業した生徒が自らの体験をベースに、思いをたたきつけた。在日であることを引き受け、差別の現実を冷静に踏まえながらも、民族や祖国といったしがらみを軽々と乗り越え、一人の人間としての自分を実現する途を探す。主人公たちは怒っている。朝鮮学校の建前に、やる気のない日本の教師に、思うようにならない現実に。だが、その怒りが他者の攻撃に向けられることはない。彼女たちにはロックがあるからだ。自由でラディカル。そこに強烈なリアリティーがある。頭で考えただけでは書けない、等身大の手触りがある。 演技の面では粗削りの部分も目立った。言葉が聞き取りにくかったし、セリフをしゃべっている以外の出演者の動きには工夫が必要だろう。だがこの舞台には、それを上回る熱があった。 高田高校『マスク』 「空気を読め」「悪目立ちするな」。今またじわり強まっている同調圧力の不気味さがじっとり伝わってきた。 最初は遊びで始まったマスクの着用が一人また一人と増えていく怖さ。その中で、マスクに耐え難い思い出を持つ主人公アケミは、懸命に拒否を続ける。戯曲を読んだときは、これほどアクの強い攻撃的なキャラとは思わなかった。ちょっと、やり過ぎか? でも、舞台を見ながら考え直した。今の教室で自分を貫くには、ここまでやらねばならないのではないか。それだけに、心が折れるラストシーンが痛い。そして気づいた。マスクは、まさに「口を塞ぐ」道具だったのだ! 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』 あふれる遊び心の中に、八重山の島々の今を詰め込んだ、気持ちの良い作品だった。これもまた、文化祭の出し物決めのお話。文化祭ネタって、結構重宝するんだ。これも新たな発見。 登場人物の名字をそれぞれ出身の島の名前にし、キャラにも投影したのがグッドアイデア。笑いの絶えない展開の中に、観光への依存、都会への憧れ、牛と羊、さらには尖閣問題といった島の現在がチャンプルー状態で投げ込まれる。野生≠フクジャクのエピソードを宝塚歌劇の話題にシラっとつなげるうまさ。郷土芸能や琉球芝居的な要素も盛り込み、観客へのサービスにも気を配る。部活の楽しさがそのまま伝わってくるのは生徒創作ならでは。八重山高校以外では作れないオリジナリティー。まさに高校演劇だ。 個人的には、黒板に書かれた「注意 校内にハブが出ました!!」などの小ネタがツボに来た。 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』 生者が死者を悼み、死者が生者を励ます。東日本大震災の被災者への思いが強くにじんだ舞台。当事者でない生徒たちが、この題材を扱うには、様々な迷いやためらいがあっただろう。扱い方にもうひと悩みあっても、という思いも残ったが、敢えて挑んだ勇気をたたえたい。 学校の階段の怪談話から津波の記憶へとつなげていく。様々な工夫の光る舞台だった。平面の動きが主体の上演作品の中で、高さへの着眼が新鮮。「階段・怪談・会談」といった言葉遊びに、キャスター付き椅子での瞬間移動、訓練の行き届いた合唱……。中でも、ブルーシートを使った津波のシーンは圧巻。終わらない日常のメタファーとしての階段から、生きるための階段への転換を鮮烈に視覚化した。 教室・学校から飛び出した作品も力作揃いだった。 長野県丸子修学館高校『K』 センスの良さに舌を巻いた。「変身」をはじめとするカフカの小説や手紙の断片を、「父親の重圧」という視点で選び取って大胆かつ的確にコラージュ。しかも、それをシュールなギャグ仕立てで芝居にしてしまう。すごく知的。とかく難解で陰鬱なイメージの強いカフカをここまで遊んでしまえるとは。これが、生徒創作というのだから恐れ入る。 全体をボードビル風にテンポ良く構成したのがしゃれている。数多い場面転換は、コンテンポラリーダンスっぽい振付を入れてスピーディーに処理し、歪んだ幾何学的な舞台装置で内面の不安、コンプレックスを暗示する。額縁のようなフレームを数多く用いて空間を切り取る。何よりカフカの世界を読み込んでいる。演技もよく鍛えられている。 完成度が高いだけに、後半の出演者が自身の心情を叫ぶシーンには、水を差された思いがした。アクセントをつけたかったのかもしれないが、いかにも唐突。カフカの不安を現代の高校生も共有していることは、敢えて生の言葉にしないでも、伝える術はあるはずだ。 宮城県名取北高校『好きにならずにはいられない』 震災で失われた命への深い鎮魂の思いが、プレスリーの名曲に乗って会場にあふれた。いじめられっ子の今野と強引なアキ、アキと妹の幸。2組の二人芝居が交互に登場し、次第にそれは震災を挟んだ現在と過去のドラマであることが明らかになる。時制の違いを、ホリゾントの街のシルエットの有無で示す工夫が心憎い。時折乱入するコロスのダイナミックな動きも舞台にアクセントを与えた。 ドラマは前半のコミカルな展開から次第にシリアスに移行していくが、その過程でアキのキャラクターが別人のように変わってしまうのに疑問を覚えた。せっかくのアイデアが結論ありきの予定調和に見えてはもったいない。最近の芝居には珍しくゆっくりと、一種の様式をもったセリフの作法にもいま一つなじめなかった。 瓊浦高校『南十字星』 劇団四季のミュージカルを、高校演劇用に1時間のストレートプレイに仕立て直した。その力業にまず感心した。南方に進駐した日本軍のBC級戦犯の物語。憲法改正が叫ばれ、日本が岐路に立っている今、未来を担う高校生たちが戦争の理不尽を描いたこの作品に正面から取り組んだ意義は大きい。 緻密な美術や衣装に並々ならぬ意欲が感じられた。セリフも四季の母音法を学んだのか、と思うほど粒だっていた。ただ一方で、そのあまりに誠実な取り組みが、四季の舞台の「なぞり」に見えてしまったのも事実。既成戯曲を使う場合の宿命だろうが、どこかに瓊浦高校ならではのオリジナルなこの戯曲の読みを見せて欲しかった。 東京都立東高校『桶屋はどうなる』 戯曲で読んだ印象より実際の上演の方が数倍面白い。ゴキブリと突然変異野菜の熱く切ない友情物語。ドラマ展開の定番を押さえつつ遊ぶ遊ぶ。TV番組のパロディーにデトックス体操、マイムにラップ。2本のロープが遊んでいる内に遺伝子の二重螺旋になるアイデアには驚いた。笑いの連打の中から立ち上がるのは、食の安全に関する笑えない現実。皮肉の針は鋭い。 そして、1時間をたった2人で見せきる俳優たちの存在感と演技力。特にゴキブリ役の運動量はハンパじゃない。幕切れ近く、ゴキブリは観客の目の前で脱皮≠オ、女子高生に変態する。破天荒な奇想が現実とつながる。その瞬間のインパクトにゾクゾクした。 徳島県立城ノ内高校『三歳からのアポトーシス』 アポトーシスって何だ? 調べたら「あらかじめプログラムされた細胞死」のことだそうだ。それが分かったところで、この舞台はよく分からない。正直に言おう。よく分からない。何だか70年代のアングラな香りがする。 薄暗い舞台で語られる埴谷雄高風の生命論と量子力学の知識。多分死と意識について語っているのであろう、言葉たちの意味を追うことに疲れ、音として聞き始める。闇を切り裂く美しい照明と溶け合って、それはそれで心地よい。でも、それでいいのか? 分からない。 それにしても、よくこの観念的な膨大なセリフを覚えたものだ。どうやって? 秘訣をぜひとも聞きたくなった。 (演劇評論家) |
個人的感想である。最近の全国大会を観劇し、この二、三年の芝居の質の深化にはただただ驚かされている。以前は全国大会を見終わるたびに、高校生の周りの小さな出来事を微細に描く演劇が多い、という印象を強く持って帰路についたものだった。ところがこの数年間の大会は、私達を取り巻く時代や社会の深刻な状況を真正面に据えて、高校生としてどのように生きていくべきなのかを真剣に模索する芝居が著しく増えているのではないだろうか。恐れずに言うならば、「3・11」以降の高校演劇の大きな特徴となっている。人間の幸不幸、生死といったことすら、あっと言う間に踏み越えるような自然災害やある場合には人為的な事故の続発は、命の尊さと同時に、尊いがゆえに我々はかく生きる、という力強い意思を生み出しているのではないか。そうした視点から12の優れた芝居を講評していく。 (北海道苫小牧南高等学校演劇部顧問) |
ありがとう!
結果なんか気にしないで次の舞台を作ろう! 清野 和男 |
時代を映す鏡
高森 章 |
今年は、「教室空間」の舞台が多くを占めていたと思います。下手をすれば平凡な舞台になりやすい側面を持っていると思いますが、どの舞台もユニークな作品で楽しむことができました。ただ、楽しいだけに終わるのではなく、もっと奥深さを持った舞台であったらとも思いました。また、やや難しい哲学的・科学的な内容を持った舞台もあり、それはそれで深く考えさせられました。さらに、津波・原爆・戦争・食文化などをモチーフにした舞台も、私たちにとって忘れてはならない大切さを教えてくれました。ただ、スタッフワークの面で気になることがありました。照明が全体的に暗かったと言うことです。機材が古いからとおっしゃっていた審査員の方もいましたが、それは違います。基本的な照明の知識がないからです。役者を照らすのが第一義的な役割であることを再認識していただきたいと思いました。また、舞台空間の作り方、特に間口・奥行きなどは演じやすい大きさの空間を作って欲しいとも思いました。 さて、私は一観客の立場に立ちたいという理由から、台本を意図的に読まず見させていただきました。ですから、まったく無の状態で見たので、役者の不鮮明な台詞・表情・リアクションなどは、見るうえで理解するのを妨げられたことが多々あったことは申し上げておきたいと思います。ですから、一校ごとの講評は、一観客の素直な感想としてお読みいただければと思います。 長野県丸子修学館高等学校『K』 見事に訓練された集団演技、そしてあれだけ多くの登場人物がエネルギッシュッに演じていたのは大変感銘を受けました。「また、カフカの実存主義の一端を理解できた気がしました。また、音響のキッカケなどスタッフワークも素晴らしいものがありました。 宮城県名取北高等学校 『好きにならずにはいられない』 アキさんと今野君の心がしっかりつかめました。台本上の構成でややパターン化した繰り返しがありましたが、それを補う熱演であったと思います。作者と皆さんの幸に対する思いがこの素敵な舞台を作れたのだと思います。 北海道北見北斗高等学校『ちょっと小噺。』(ちょこばな) 軽妙なやりとりで、淡い高校生青春を演じきっていました。なんとなく心が明るくなり、こちらも青春をいたただきました。ただ、予想通りの展開で物足りなさは感じました。しかし、非常によく訓練された舞台であったと思います。 栃木県立さくら清修高等学校『自転車道行曾根崎心中』 曾根崎心中と少女との思いが、融合しているとは思えませんでしたが、自転車を使った舞台は非常に新鮮に感じ、みなさんの原発などの大気汚染や産業廃棄物などにに対する思いは十分伝わってきました。 瓊浦高等学校『南十字星』 精一杯演じていることに瑞々しさを感じました。書き割りの美術も素敵でした。ただ、断片的につなぎ合わせた感は否めず、芝居の奥深さが薄かったと思います。保科の透き通った演技は心に残りました。 広島市立沼田高等学校 『うしろのしょうめんだあれ』 原爆という重いテーマに果敢に挑戦していることはすばらしいことと思います。ただ全体的に、事実の説明に終わった気がしたのは残念でした。しかし、みなさんのひたむきな演技によって、原爆の悲惨さと、まだ原爆の問題は終わっていないということを、再認識させられました。 大阪市立鶴見商業高等学校 『ROCK U!』 スナとミエの気持ちはよく理解できました。ただ、会話の中で長々と切なく訴えることはドラマ性が薄くなると感じました。また、大切な台詞が聞き取れないところが多々あったのは残念でした。ダンスももっとエネルギーが欲しかったと思います。しかし、全員のアンサンブルのとれた演技は見事でした。 高田高等学校『マスク』 個々の個性だけでなく、グループごとの個性を出している演技に感服しました。最後どうなるんだろうという期待感。「普通」ということの人間生活での意味を大変深く考えさせられました。そして「マスク」に例えられた、人間社会での強制された一律さが恐ろしいと感じられました。 東京都立東高等学校 『桶屋はどうなる』 設定が面白く、また考えさせられる芝居でした。人間は食べなければ生きていけないのは当たり前ですが、その食についてもっともっと考えていかなければならないということを思い知らされました。欲を言えば、小道具の処理などを、段取りではなく演技の流れの中で自然に見えるような演出であって欲しいと思いました。 徳島県立城ノ内高等学校 『三歳からのアポトーシス』 漆黒と赤の芝居。それは人間社会の闇と生命としての血を表現しているのでしょうか? 残念なのは台詞が聞きづらく、表情も見えず、観客は置いてけぼりだったのではないでしょうか?しかし、良く訓練された演技であったと思います。 沖縄県立八重山高等学校 『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』 大変面白く見させていただきました。ありもしない高校生もいましたが、自然に感じるくらいにうまく騙されました。地元の話題も自然に取り入れてあり、非常に好感が持てました。照明を明るくしたことや、地元の話題や曲も取り入れてあったことも成功した大きな原因であると思います。 島根県立出雲高等学校 『ガッコの階段物語』 設定は面白いと思いました。一つ一つのエピソードが、「人生を生きるということは、一歩一歩階段を歩み続けている」ということの象徴であると感じました。しかし、収束が少し安易になっていることが、面白さを無くしてしまったと思えました。しかし、演技者はテンポも良く、非常に緊張感を持って演じていたと思います。 〈審査員として感じたこと〉 優劣を付けなければならない現状において、脚本の読み込みをして舞台の評価をする場合と、無の状態から評価するのでは異なっていると思えました。審査員が観客とは異なる立場に置くか、それとも観客と同じ立場に置くかで違ってくると言うことであります。それによって、審査結果は当然異なってくるということを実感しました。教育は常に生徒の立場に立って、その視線を同じにしてやっていかなければならない時代です。この高校演劇も、そういった観点に立って考えていくべきかと思いました。そう言った意味で、出場校の皆さんは、たった七人が決めた結果を気にせず、自分たちの上演した作品が最高であったと思って、今後も演劇作りに励んでいただきたいと思います。 上演していただいた学校のみなさん、熱い青春を届けてくれてありがとうございました。 (全国高等学校演劇協議会顧問) |
昭和五六年の秋田大会以来約三十年にわたって全国大会の芝居を楽しんできました。その一つひとつの舞台は、高校生が生きている時代を的確にとらえて表現しています。いくらか記憶をたどってみますと、受験偏重主義下の高校演劇部を生き生きと描いた『さざんがきゅう』(昭五十六)、保健室登校生を取り上げた『トシドンの放課後』(平十七)、いじめ問題を掘り下げた『ともことサマーキャンプ』(平二十一)等々。その時代その時代の問題に切り込んだ印象的な舞台が続いています。高校生、現場の先生の新鮮な切り口の舞台に、笑いを抑えきれなかったり、恐ろしさに顔があげられなかったりの記憶が今でもよみがえってきます。正に高校演劇は「時代を映す鏡」です。 今回は、幸いにも事前に十二本の脚本を読むことが出来ました。それぞれに現代社会が抱える問題を独特の感性でとらえて表現しています。どんなすばらしい舞台が登場するのか。心躍らせながら長崎に入りました。 長野県丸子修学館高校『K』は、難解なカフカの小説『審判』『城』『変身』を並行して舞台化することによって、不安と劣等感を抱きつづけた彼の人生を分かりやすく描いていました。これを高校生が書き上げたことに大きな驚きを覚えます…。舞台美術では、中央のカフカの位置する床面が斜めに作られていて、不安に苛まれる彼の立場を的確に表現できていました。また、重たいテーマでありながら、軽妙でテンポがよく、飽きさせない舞台でありました。 宮城県名取北高校『好きにならずにはいられない』は、人を信じることができなくなって、かたくなに他人の好意を拒み続けるタマちゃんにも、亡くなった幸の「純粋な気持ち」は姉の熱意で通じました。心を打たれる幕切れでした。影絵のような遠見とフェンスはよくできていて、フェンスはコロガシが当たるとさらに効果を増していました。また、場面転換の間奏曲とダンスやコロスの動きが小気味よく、しゃれた舞台に仕上がっていました。 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)は、部員不足・廃部の危機からバレンタイン寄席を実行する落語研究会のドタバタをさわやかに舞台化。義理チョコ、思い違いの本命チョコ、サプライズの本命チョコ、ホワイトデーのリターンマッチ等々、『粗忽長屋』の熊さん、八つぁん、与太郎そのままに、楽しい舞台が続きました。そして、笑いの力で、文化部の逆境も吹き飛ばしてくれたような爽快感を感じました。 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』は、失われていく故郷を守ろうとする話だと思います。『曾根崎心中』と「失われていくもの」を結び付けて表現していたのではないかと思いました。幕が開くと、高校生たちが一斉に自転車をこぎ始めるという度肝を抜くシーンから始まり、不気味な黒い箱の転校生登場、次々に転出していく同級生達と、次にいったい何が起きるのかと、ハラハラ、ドキドキの展開が巧みでした。 長崎県瓊浦高校『南十字星』は、ミュージカル、それも二時間は越えるであろう原作を、六十分の舞台に書きかえることが出来るのかと心配でした。しかしながら、芝居になっていました。その苦労に賞賛をおくりたいと思います。また、日本をとりまく情勢の中で、平和を願う芝居に取り組まれたことは意義があったと思います。 広島市立沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』は、平和研究部の生徒が「被爆体験記」を読んでいくという展開の中で、「広島の悲劇を忘れてはならない」というメッセージが、心の奥深くまで伝わってきました。大黒を使い、間口をせめて適切な空間が作られていました。また、高校生目線で芝居が作られていたことで、知らず知らずのうちに舞台に引き込まれていました。 大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』は、自分たちの置かれている状況に真正面から取り組んでいて、それがダイレクトに伝わってきました。また、登場人物がそれぞれに個性ある存在で、うまく噛み合っていました。とくに「九ちゃん先生」。独特の雰囲気で、「こんな先生、おるな。おる、おる」と苦笑いしてしまいました。 三重県高田高校『マスク』は、社会学者リースマン著の『孤独な群衆』を思い出しました。現代人は「他人指向型」であり、他人や権威に同調する傾向が強いとする分析です。「普通がええの。普通にすごしていきたいの」と言わせてしまう、人間の個性や存在感を認めようとしない大衆の「同調圧力のぶきみさ」を強く感じた舞台でした。 東京都立東高校『桶屋はどうなる』は、より安全なものを美味しく食べたいという「食の安全」を、ゴキブリの世界を通して、押し付けではなく、受け入れやすい手法で表現しています。それはもちろん、現代の若者への訴えであり、ラストの女子高校生への早変わりシーンで強調されていました。また、二人だけの芝居で苦労はあったと思いますが、衣装や縄跳びなどで、お客さんを引き付ける工夫ができていました。 徳島県立城ノ内高校『三歳からのアポトーシス』は、脚本を読んだ段階では理解しづらい芝居でしたが、実際の舞台は、分かりやすくなっていたと思います。難解な舞台をたった四人でたくさんの登場人物を演じ分けていたのに驚かされました。その演じ分けが分からないくらいに巧妙でした。それに何と言っても、主役の「男のようなもの」の存在感。地の底から響いてくるような太い声が舞台全体を圧倒していました。 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』は、沖縄が直面している問題を各所に盛り込みながらも、全体としては高校生目線で舞台が展開していたので、その思いはすっきりとお客さんに届いていたのではないでしょうか。間口を狭めて、出入り口を正面に近いところに持って行ったのは正解です。適度な間口はお客さんを舞台に引き付ける効果がありましたし、出入りの芝居がいきいきとしていました。 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』は、「私たちの目の前にある階段は何のために上るのか」という自問自答を、いろいろな見せ場を盛り込みながら描いてくれました。「生きるため」「生き延びるため」ということでしょうか。高くそびえる階段は、「立ちはだかる」という存在感のあるセットでした。また、キャスター付きの椅子の利用は、スピーディな舞台転換に効果的でした。
(全国高等学校演劇協議会顧問) |
日本一幸福な時間
森藤 舞 |
まずはじめに、今回のしおかぜ総文祭で生徒講評委員長として関わらせていただいたことを本当に感謝しています。全国の演劇部と全国レベルの劇を観劇し、語り合ったことは、一生に一度の貴重な体験でした。 生徒交流会では生徒講評委員として参加し、ダンスとボディーパーカッションをしました。初対面で互いの事を知らない状態での練習でしたが、時間が経つにつれてだんだんと慣れてきたのか、次第に仲良くなり、息も合ってくるようになりました。そして生徒交流会当日は会場が盛り上がって「おー!」という声なども聞こえてきたので、生徒講評委員全員が満足のいく舞台にすることができました。この生徒交流会も大切な思い出のひとつです。 お互いに出会って2日目から講評活動が始まり、最初は練習で2つの作品のビデオを見て、ディスカッションしました。私がここで驚いたのが、つい先ほどまでふざけ合ったり、楽しそうに話をしていたメンバーが、劇が始まったとたんに真剣な表情になり、ディスカッションの中でも各々が劇についての感想や思いなどを活発に語り合ったことです。どんな討論になるのだろう、と内心ビクビクしていた私は、目の前で行われている討論に圧倒されながらも、自分なりに意見を言ったつもりだったのですが、やっぱり全国で選ばれただけあってすごいなぁ、と少々上から目線がちに思っていました。その1日目で全員がとてつもない程演劇が好きで、「この講評委員メンバーは演劇馬鹿の集まりだ!」と勝手に確信しました。3日目からはいよいよ全国レベルの劇を見てのディスカッション。どうなるか楽しみでした。やはり討論は活発でした。生の劇を見てすぐの討論だったので、なおさら活発でした。なかなか難しい内容の作品もありましたが、各々が自分なりに感じたことを言葉にし、意見を共有し、作品について深く語りました。さらにその夜、戻ったホテルでその日に語り合ったことを講評文として作成しました。私たちが語った熱い思いを文章にするのはとても難しかったです。それでも会場に来て下さった皆さん、上演校の皆さんに私たちの想いを伝えたい一心で生徒講評委員一同頑張りました。 私はこの活動を通してひとつだけ後悔したことがあります。それは、私は高1から演劇部での活動を始めたのですが、もっと演劇馬鹿でありたかったことです。高3の受験間近の時期にさしかかった今、もっと演劇がしたかったと思いました。それでもこの時期だったからこそ得たものは大きかったし、何より全国レベルの劇を全て見ることができたこと、演劇について語ったこと、生徒講評委員長をさせていただいたこと、この17人と出会い講評ができたこと、すべてに感謝しています。本当に充実した高校生活最後の夏休みでした。演劇やっててよかった!本当にありがとうございました。 (生徒講評委員長 鎮西学院高等学校) |