審査員講評
不条理と向き合う

平田オリザ

 今回は、主に劇作家という立場で審査をしましたので、この文章も創作戯曲を中心に記していきたいと思います。

 長野県丸子修学館高校の『K』は、難解なカフカの不条理小説をよくまとめて一つの舞台に仕上げました。まずその力量に、掛け値なしに脱帽しました。ただ、残念だったのは、カフカの文学世界を、父親との関係だけに収斂させすぎたきらいがある点です。たしかにこの指摘は一つの要素であり、一つの解釈ですが、やはり大作家カフカの世界は、それだけに止まらない謎があるように思います。
 また終盤になって、いささか乱暴に、演じる高校生の素顔を出し、また「こんな演劇はやっても意味がない」という台詞まで出すというのは余計だったかもしれません。こういった場面を、プロの世界では「エクスキューズ(言い訳)が多い」と呼びます。
 全国大会の講評でも話しましたが、ここで少し「不条理」という言葉について書いておきたいと思います。「不条理」という単語自体は、論理の筋道が通らない、理屈に合わないことを言います。しかし「不条理文学」「不条理劇」といった場合の「不条理」はもう少し特殊な意味を持ちます。それは端的に言えば、人生には何の意味もない。人間には存在の理由がないということです。
 古今東西、多くの哲学者や宗教者が、人間の存在理由について考えてきました。しかし二十世紀になると「いや、そもそも人間には、存在の理由はないのではないか」という新しい哲学が生まれてきました。カフカの文学は、その先駆をなすものと考えられています。
 「人間には存在理由がない」「人間存在には意味がない」とだけ書くと、なんだか絶望的ですね。これを哲学の用語ではニヒリズムといいます。しかし、ここで絶望するのではなく、この絶望的な状況を受け入れて、それでもいかに生きていくかを考えることが、二十世紀後半の哲学の大きなテーマとなりました。
 カフカの『審判』という作品では、主人公は理由なく逮捕され、裁判にかけられます。私たちを理不尽に抑圧する可能性のある国家というシステムも「不条理」の一つです。この観点から言えば、大阪市立鶴見商業高校の『ROCK U!』は、国籍という不条理を描いた作品だと言えるでしょう。
 あるいは戦争は、人類最大の不条理と言えるかもしれません。なぜ広島と長崎に原爆が落とされなければならなかったのか。政治史の上ではいくらでも説明はできます。しかし、被爆をした一個人にとって、それは不条理以外の何ものでもありませんでした。
 念のため、繰り返し書いておきますが、だから絶望的だということではありません。それでも私たちは、戦争を回避する努力を怠ってはなりません。
  『K』を皮切りにして、この大会は、人間の不条理性を扱う作品が続いたと思います。
 その理由は明らかでしょう。
 私たちは、二○一一年三月一一日に、東日本大震災という大きな不条理を経験しました。ここでもまた、津波に流されて亡くなった方たちと、生き残った者たちの違いは何もありません。あの日以来、私たちはみな、「理由なく」生き残った者たちです。
 宮城県名取北高校の『好きにならずにはいられない』は、まさにそのような震災による不条理な死を直接的に扱った作品でした。担任をしていた生徒を亡くされた顧問の先生の悲痛な思い出が、見事に昇華された美しい舞台でした。ただ戯曲の技術的な面で言えば、いじめられていた生徒が、かつてのクラスメートの死を知らされ、他者に対して耳を傾けるようになる、その成長の過程を、もう少し丁寧に描いてほしかったと思います。私たち「生き残った者」たちは、ただ、生き残ったから成長するのではなく、死者の声に耳を傾けることによって、少しずつ成長していかなければならないのではないでしょうか。

 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺』(ちょこばな)は、落語を題材に、緻密に構成された素晴しい舞台でした。様々な小さな事柄が、きちんと後半の伏線になっており、創作戯曲のお手本のような作品になっていました。
 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』は、冒頭の設定が秀逸で、一挙に観客を舞台に惹きつける力を持った作品でした。自転車をこぐことで発電をしていた教室が、放射性廃棄物、あるいは原発そのものを象徴する黒い箱の転校生を受け入れることで、少しずつ明るくなり、生徒は自転車をこがなくてよくなります。このメッセージは鮮烈なのですが、残念ながら、もう一つのモチーフである『曾根崎心中』との関連が少し弱かったように思いました。これは、原子力と人類の「道行(みちゆき)」なのかと私は感じましたが、そうだとしても、そのつながりが観客には見えにくかったのではないでしょうか。
  大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』は、朝鮮学校の生徒が自由を求めて日本の高校に転校してきたものの、その高校のあまりのだらしなさ、やる気や目的のなさに呆然とすると言う異色の作品でした。在日の問題を超えて、自由とは何かを語りかけてくる深い内容の作品でした。また、転校生を二人にしたことによって、高校へのなじみ具合の差異なども見えやすく、戯曲自体も優れた構成になっていました。
 高田高校『マスク』も、強い不気味さを秘めた作品でした。マスクを付けるかどうかという一点で、クラスの雰囲気を二転三転させていく手法は魅力的でした。しかし、やはりマスクという題材一つで一時間の舞台を引っ張っていくのは難しい面があったかもしれません。もう一つ、何か横軸なる設定があればよかったかもしれません。たとえば部活動の部分を、もっと書き込むことができたかもしれません。
 東京都立東高校の『桶屋はどうなる』は、何よりも題名が素晴しく、また、内容に見合ったものでした。原発問題に端を発し、これまで無意識に食べていた様々なものに疑問を持ち始めるようになった日本社会を見事に描き出しました。ただし、この作品は、登場人物の少なさもあって、中盤以降、単調になってしまう印象を否めませんでした。
 徳島県立城ノ内高校の『三歳からのアポトーシス』は、たいへんに難解な戯曲でした。埴谷雄高という、戦後、人間の不条理、この受け入れがたい生をどのように生き抜いていくかということをもっとも真剣に考えた知識人の思想を元に、重厚な作品となっていました。ただ、たとえば『K』が、カフカの難解な作品を舞台上に適切に立体化されていたのに比べると、舞台化するよりも台詞を読んだ方が分かりやすいような印象を与えてしまったのはマイナスでした。
 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』は、石垣島、宮古島以外の先島諸島には高校がなく、石垣の高校には様々な島の生徒が集まってくるという特殊事情をよく生かして、のびのびとした爽やかな舞台になりました。ユーモアたっぷりの作品ですが、一人ひとりの登場人物について、きちんと伏線が引かれており、しっかりとした構成になっていました。惜しむらくは、先に掲げた特殊事情を知らない観客にも、もう少し分かりやすい構成になっていればと思います。
 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』も、震災をテーマとした作品です。いくつもの言葉遊びが仕組まれていて、巧みな構成になっています。残念なのは、前半をコメディタッチで後半は一転してシリアスにというのは、高校演劇では多くありますが、どうもその転換が唐突すぎる舞台が多く見られ、この戯曲もその感が否めませんでした。後半の展開を予感させる部分を、もう少し前半から折り込んでいくと、より重層性のある作品になったかと思います。
 高校演劇の魅力は、皆さんが、不安定な「生」に立ち向かうところにあると私は感じています。その点では、今年の全国大会は、まさに高校演劇の魅力満載の大会になったのではないかと思います。

(劇作家

初出場校の活躍に拍手!   

  篠ア 光正

空間の使い方

 松井 るみ

 高校演劇の先行きを危惧しているのは、私ばかりではないはずだが、今回の大会では、初出場校の活躍で新しい風を感じ、高校演劇の「時代の今を表す力」を改めて実感した。次世代を担う現役高校生が、何を尊び何を欲しているのか。未来のわが国のイメージを少し予感することができたのかもしれない。また、これまで高校演劇の代名詞のように存在した「いじめ」「自殺」「不登校」などが、小学校や中学で大きく話題にされる時代になり、高校演劇の題材から数が減ったのは理解できる。代わって主題となったのが、現代社会。この主題の交代興味津々である。
 長野県丸子修学館高校『K』この作品は、よくできた台本で、カフカの世界を端的に、そして不条理としてギャグにしてしまう構成力が光った。また、舞台空間演出がカフカの世界を美的に描いているのがいい。机が大きく傾いているのが、すべてを象徴している。問題は、前半と後半で表現の質が変わっていることである。父親との関係が無理やり仕立てられたという少し強引な演出により、不条理劇から条理劇へと変わってしまったが、不条理のままで良かったのではないだろうか。
 宮城県名取北高校『好きにならずにはいられない』題名がいい!この舞台のテーマを強く表現し、さらにお姉さん役の独特なセリフ回しのエネルギーとなった。また、苦しむタマがシルエットでホリゾント幕に映し出されるところは、シルエットが水平な手すりに見えるように、周到に照明機材の調整が工夫されて震災を連想させた。ただ、台本の工夫が足りず、タマが音楽を忘れているなど、作り手のご都合主義が見え隠れしている。台本には説得力を持たせなければ、観客の想像力を減退させてしまう。
 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)面白い!演出、演技の工夫が実に楽しく、飽きさせない。配役の妙もさもありなんとついつい頷かされてしまうほど、自分たちのドラマに仕立てている。台本の落語もよく吟味して語りとしてもよくぞまとめている。顧問の先生の努力を察するとともに、芝居への愛情を感じる。問題はラスト。コメディとして描くこの作品は、どのようにして、終わればよいのか。ここが難しい。コメディではないドラマ、特に文学的ドラマは、ストーリーの結末がドラマの終りである。物語が結末を迎えると、観客も納得して現実に戻れる。しかし、コメディはそうはいかない。
 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』幕開きの面白さは、今大会の作品の中でピカ一である。これほど興奮させた上演は久々である。おまけに、自転車を漕がなければ電気が消えてしまうという設定を知り、自転車漕ぎで体力勝負の道行とは、若者の面白いアイデアだと勝手に予想してしまったが、コントを入れすぎるなど作り手の思いが独り歩きしてしまった。ただ、戯曲は筋がいい。一人、また、一人と居なくなり、黒い箱が増えていくのは、着想としては良かった。
 瓊浦高校『南十字星』勇気が無ければ出来ない大きな決断だったに違いないこの作品の上演。よくぞやったと思う。勿論、長編を六〇分にカットするのは、プロからすれば無茶苦茶な作業だが、上演許可がもらえるまでのテキストにしたのは称賛に値する努力である。高校演劇はどんなものでも六〇分で上演する気概が必要だが、昨今の劇作家の厳しい拒否運動で、現在は長編ものを短縮する上演は稀有である。劇作家を説得する高校演劇パワーの再来を期待したい。今回の上演については、舞台美術が素晴しい。
 広島市立沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』アイデンティティを失った女子学生がそれを取り戻すというドラマは説得力がある。また、二重構造の舞台美術は、観る側にとっては観やすい。現実の舞台空間で教室やその他劇中の空間に設定しやすいのが、二重構造である。一方、台本は説明セリフが多く、演劇的な力に期待するスタンスが無かったのが悔やまれる。
 大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』敢えて八つ当たり的構造といいたいが、これが成功した例は今まであまり記憶にない。よく書いた。在日の問題を、これまでは在日側から表現する作品が多かったが、日本の学校に入り、在日問題を考えるというスタンスが新鮮でいい。しかも、その日本の学校が最悪な状況で、怒りは八つ当たりとなるが、その中で友情を通して、アイデンティティを見つけていくストーリーには大きな説得力があった。また、キャストの個性を実によく引き出し、登場人物の人間関係を巧妙に作り上げた配役の妙を称賛したい。荒っぽい処理も随所に見られたが、それが気にならないくらい劇的状況を作り上げることができた。アンサンブルの良い感動の舞台であった。
 高田高校『マスク』高校生を実によく観察し、自分たちの身近な世界の中から、ドラマを作り出しているのが良い。高校演劇の特徴とも言えるが、その世界から新たな世界が浮かび上がった。同調圧力を仕掛けに「生きる」をテーマにドラマを終結させるのではなく、問題提起として投げかける。近年も大震災の折、「絆」が問題となったが、この舞台を観ていて「絆」も頭に浮かんだ。同調圧力の気持ち悪さは観終わった後も心の中で疼いていた。
 東京都立東高校『桶屋はどうなる』重いテーマを二人芝居で、センス良くまとめあげた。また、小道具、縄跳びなどの工夫が良く効いて、チャバネの気持ちに観客は感情移入させられた。後半、ドラマをまとめようとして、説教臭くなり、シリアスな表現が、テンポを落してしまった。これは演出上、劇場に流れるリアル時間と、ドラマの中に流れる劇的な時間が同じものになってしまったためである。
 徳島県立城之内高校『三歳からのアポトーシス』代表作『死靈』)で著名な、戦後日本の文学者埴谷雄高の世界を原作にして台本にしたが、残念ながら演劇的なものは広がらなかった。しかし、この大会で読ませてもらった台本の中で、もっとも興味を持った作品である。台本に書かれてあることをどのように舞台化するのか。しかし上演は観念的な表現が最後まで続き、まるで疾走する二頭立ての馬車に乗っているような気持ちにさせられた。
 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』上演が良かった!最初に台本を読んだ時は、舞台を予想することが出来たが、実際に上演した舞台は、予想をはるかに超え、ドラマティックになっていた。その原因はキャラクターづくりであると考えた。演技は幼いが劇の構造が自分たちの現実と重なっているため、演技中のリアリティはどの学校にも負けないものだった。役柄の配置、逆転の構造、すべてがうまく成立していた。どうやら、彼らの人懐こい眼差しに秘密がありそうである。
 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』椅子の転換や場面転換の演出のスピード感は心地よい演出であった。階段をモチーフに演出の工夫が随所に生きていた。問題は、そのアイデアにこだわりすぎ、作品の本質を深く大きく描くことが出来なかった点にある。生きる場所、生き抜く場所、惜しいアイデアだったが、説得力に欠けた。

(日本演出者協会理事)

今回初めて高校演劇の審査員をつとめたが、信じられないほどレベルが高く、とても刺激的な体験ができた。場所によって、その土地の問題がクローズアップされているのは、高校演劇ならではだと思う。全国の高校生の生の声を聞ける素晴しい時間であった。

長野県丸子修学館高等学校『K』
 開帳場はスロープをうまく構成した舞台を使っていた。奥のカフカと机がいる小さな台とフレームの使い方がうまい。特に『変身』の際には虫になった俳優の出入り口としても有効活用されている。グレゴールの動きと相まってよかった。カフカと作品中の登場人物がスロープを使うことで、2次元空間、パラレルワールドが形成されていた。

宮城県名取北高等学校『好きにならずにはいられない』
 センターの構成舞台が硬質なのに対して、奥の町並みパネルが丁寧に作られていることで、異質な感じが表現されており、時間経過も効果的に表現できていたのではないだろうか。今野くんの格子を使った怯えた姿が、影を使うことによって、視覚的に効果的であった。シーンチェンジを積極的に見せているのも、逆の発想で面白かった。

栃木県立さくら清修高等学校『自転車道行曾根崎心中』
 教室と自転車の組み合わせに驚かされた。一方で、黒い箱のビジュアル表現にもう少しアイディアがあっても良かったのではないか、と感じた。箱が有人ボックスに切り替わったときなど、謎はあってもちろん良いと思うが、もう少し情報を整理した方が、より怖さが増幅したのではないだろうか。

北海道北見北斗高等学校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)
 高座のセットが机と椅子に囲まれていることで、ここがまず学校であることが伝わったので、パネル等で組むよりも場所の説明として効果的だったのではないだろうか。芝居の中身はバランスが良く、安心して見ることができた。定式幕、看板が良く出来ていたのだから、使い方をもう少し研究すると、よりいっそう芝居に厚みがでたのではないかと思う。

瓊浦高等学校『南十字星』
 シーン数、登場人物の数などが群を抜いているが、衣装も含め素晴しい出来であったと思う。ヤシの葉や京都の遠見パネルはプロの背景さん顔負けの出来映えだった。ただ、今の舞台美術の表現方法としては、ホリゾントに切り出しパネル(平面)で表現することは珍しくなっており、これだけの技術力があるのであれば、よりオリジナリティのある装置デザインに挑戦してみてはどうだろうか。

広島市立沼田高等学校『うしろのしょうめんだあれ』
 箱と棒だけで表現するという、具象物で飾り込むのとは真逆のスタイルであった。お客さんの想像にゆだねるというやり方は、ピーター・ブルックの『何も無い空間』の発想から始まり、今や古典になりかけているが、とても正しいやり方だと個人的には思っている。

徳島県立城ノ内高等学校『三歳からのアポトーシス』
 前に立っていた檻が視界を遮っていたことに加え、照明が暗過ぎて、俳優の顔が見えづらく、ビジュアル面でフラストレーションがたまってしまった。わざと暗闇の中で見せる芝居も多く演じられてはいるが、その場合は陰影が緻密に計算された上で行われている。もう少し照明効果についても研究された方がよいかもしれない。

高田高等学校『マスク』
 学校セットは奥の廊下の窓まで製作されていて、きっちり建て込んであるように見えた。マスクは仮面とのダブルミーニングだったのだろうか。パネルの奥まで作ってあって、窓もヌケていて、廊下を通る生徒たちの姿も有効に使えていた点が評価できる。

大阪市立鶴見商業高等学校『ROCK U!』
 小道具で、学生の本物らしさが出ていて好感度が高い。また机の向きで、学校の様子が伺える。ゴミのあり方、かばんの持ち物、制服の着方にキャラクターの設定がきちんとなされており、細部まで神経が行き届いている印象を受けた。制服からTシャツに着替える演出も含め、女の子らしさを感じた。台詞もストレートで伝わりやすくて良い。

東京都立東高等学校『桶屋はどうなる』
 出演者たった2名で、舞台を奥まで使っており、その潔さに完敗だ。縄跳びDNA、輪投げの輪で穴を表現する等、ミニマムな小道具で良く表現できていたと思う。ベジ子も茶羽根さんの衣装も非常に良く出来ていた。ベジ子を明るくかわいいキャラクターであることで、この作品が持つシリアスな部分が重たくなりすぎないのが良い。

沖縄県立八重山高等学校
『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』

 角度を振って飾ったことで、結果的に、照明、音響的にも効果が出せたのではないだろうか。黒板、掲示板にも、台本と関係することが仕掛けられていて、見る側への助けになっている。小道具の使い方にも、ちょっとした気遣いがなされていたのが良い。後日、宝塚歌劇団の人たちに八重山高校の話を伝えると非常に喜んでいた。機会があったら是非、生の舞台を観てほしいとおっしゃっていた。

島根県立出雲高等学校『ガッコの階段物語』
 階段は舞台装置の中でも最も使われる頻度が高く、俳優の立つ位置の「高さ」の違いで俳優の人間関係をビジュアル化できる。階段の意味が改めて問われており、興味深いと感じた。引用されていたエッシャーの階段は、騙し絵の階段であり、実存できないものを引用していた点は、もう少し考えても良かったかもしれない。キャスター付きの椅子を使って展開するのもスピード感があって面白かった。

(舞台美術家)

「教室」に映る世界

劇世界に触れて今村  修


芝居の質の深化ということ

 乳井 有史 

 教室って面白い! 今大会の全上演を見終えて、改めて大いに感心した。そりゃ、論理的な思考にも慣れてきたエネルギーいっぱいの男子や女子が毎日顔を合わす空間だから、色んなドラマが生まれて当たり前。喜怒哀楽、友情、恋愛、喧嘩、いじめ、出会いと別れ……。劇の題材には事欠かないだろう。にしても、こんなに世界のよしなし事が教室を舞台に描けるなんて。
 全12作品の内、教室を舞台にしたものが5作品、校内を舞台にした2作品を合わせると、過半数を占めた。どれも高校生活の日常を描いているのだが、そこから見える風景がスゴイ。民族とアイデンティティーの問題、原発事故、震災、同調圧力、島の暮らし……。教室にいながら、高校生たちは実に様々な「今」を見、そして生きている。とても新鮮な発見だった。
 ということで、まずは「教室・学校もの」を上演順に見ていこう。
 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな) 女子にモテようと空き教室で寄席を開く、落語研究会の奮闘記。創作落語の「つかみ」から、落語ネタをちりばめた筋の運び、意外なツンデレ女子の登場によるアクセント、そして創作落語改作によるサゲと、コメディーの定石を押さえた舞台。キャラの立て方もうまい。きっと、ワイワイガヤガヤ稽古を続けながら、一人一人当て書きしていったんだな、と微笑ましくなる。男子部員の存在感が舞台を弾ませた。
 確かに、社会問題などを見据えた舞台に比べると、いささか軽い感じは否めないが、それは百も承知の上で笑いに徹した潔さを買う。欲を言えば、最初と最後の創作落語と本編のストーリーをもっとリンクさせると良かったか。寄席を取るか、彼女を取るかの部分に義理と人情を重ねたのだろうが、ちょっと分かりにくい。ここがうまく行けば「チョコは欠けても、義理には欠けねえ」の名台詞がビシッと決まっただろうにと、ちょっとこだわり。
 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』 電力不足のため生徒が自転車を漕いで発電しながら授業を受けるという設定が視覚的にも斬新だった。教室には次々と人とも物とも知れぬ「転校生」がやってくる。その度に電力事情は改善されるが、クラスメートは家族と共に一人また一人と故郷を離れていく。「転校生」は何のメタファーなのか。原発か?汚染廃棄物か?使用済み燃料か? 何の説明もないのが効果的だ。発表会にクラスみんなで披露するはずだった「曾根崎心中」の道行の朗読が度々差し挟まれ、通奏低音のように喪失感を増幅する。ただ、それがなぜ「曾根崎」という作品でなければならなかったのか? その疑問が最後までぬぐえなかった。
 広島市立沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』 アイデンティティーを失った少女が、蓋をしていた辛い記憶に向き合うことで自分を取り戻す。現在の教室と原爆を被爆した少女の体験、そして彼女の記憶。多層の時空が絡み合い響き合って、原爆の悲惨さと体験の過酷さが浮かび上がる。クラスメートに存在を無視されたまま教室を出られない少女は、実在するのか? 記憶の亡霊か? 観客の想像力を刺激する奥行きのある構造だ。
 にもかかわらず、自身を見失った理由を繰り返し言葉で説明するものだから、ネタバレになってしまった。セリフであからさまに言わなくても、力のあるドラマなのだから見てれば分かる。その方が観客としてもありがたい。
 大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』 とびきり熱い舞台だった。この春卒業した生徒が自らの体験をベースに、思いをたたきつけた。在日であることを引き受け、差別の現実を冷静に踏まえながらも、民族や祖国といったしがらみを軽々と乗り越え、一人の人間としての自分を実現する途を探す。主人公たちは怒っている。朝鮮学校の建前に、やる気のない日本の教師に、思うようにならない現実に。だが、その怒りが他者の攻撃に向けられることはない。彼女たちにはロックがあるからだ。自由でラディカル。そこに強烈なリアリティーがある。頭で考えただけでは書けない、等身大の手触りがある。
 演技の面では粗削りの部分も目立った。言葉が聞き取りにくかったし、セリフをしゃべっている以外の出演者の動きには工夫が必要だろう。だがこの舞台には、それを上回る熱があった。
 高田高校『マスク』 「空気を読め」「悪目立ちするな」。今またじわり強まっている同調圧力の不気味さがじっとり伝わってきた。
 最初は遊びで始まったマスクの着用が一人また一人と増えていく怖さ。その中で、マスクに耐え難い思い出を持つ主人公アケミは、懸命に拒否を続ける。戯曲を読んだときは、これほどアクの強い攻撃的なキャラとは思わなかった。ちょっと、やり過ぎか? でも、舞台を見ながら考え直した。今の教室で自分を貫くには、ここまでやらねばならないのではないか。それだけに、心が折れるラストシーンが痛い。そして気づいた。マスクは、まさに「口を塞ぐ」道具だったのだ!
 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』 あふれる遊び心の中に、八重山の島々の今を詰め込んだ、気持ちの良い作品だった。これもまた、文化祭の出し物決めのお話。文化祭ネタって、結構重宝するんだ。これも新たな発見。
 登場人物の名字をそれぞれ出身の島の名前にし、キャラにも投影したのがグッドアイデア。笑いの絶えない展開の中に、観光への依存、都会への憧れ、牛と羊、さらには尖閣問題といった島の現在がチャンプルー状態で投げ込まれる。野生≠フクジャクのエピソードを宝塚歌劇の話題にシラっとつなげるうまさ。郷土芸能や琉球芝居的な要素も盛り込み、観客へのサービスにも気を配る。部活の楽しさがそのまま伝わってくるのは生徒創作ならでは。八重山高校以外では作れないオリジナリティー。まさに高校演劇だ。
 個人的には、黒板に書かれた「注意 校内にハブが出ました!!」などの小ネタがツボに来た。
 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』 生者が死者を悼み、死者が生者を励ます。東日本大震災の被災者への思いが強くにじんだ舞台。当事者でない生徒たちが、この題材を扱うには、様々な迷いやためらいがあっただろう。扱い方にもうひと悩みあっても、という思いも残ったが、敢えて挑んだ勇気をたたえたい。
 学校の階段の怪談話から津波の記憶へとつなげていく。様々な工夫の光る舞台だった。平面の動きが主体の上演作品の中で、高さへの着眼が新鮮。「階段・怪談・会談」といった言葉遊びに、キャスター付き椅子での瞬間移動、訓練の行き届いた合唱……。中でも、ブルーシートを使った津波のシーンは圧巻。終わらない日常のメタファーとしての階段から、生きるための階段への転換を鮮烈に視覚化した。
 教室・学校から飛び出した作品も力作揃いだった。
 長野県丸子修学館高校『K』 センスの良さに舌を巻いた。「変身」をはじめとするカフカの小説や手紙の断片を、「父親の重圧」という視点で選び取って大胆かつ的確にコラージュ。しかも、それをシュールなギャグ仕立てで芝居にしてしまう。すごく知的。とかく難解で陰鬱なイメージの強いカフカをここまで遊んでしまえるとは。これが、生徒創作というのだから恐れ入る。
 全体をボードビル風にテンポ良く構成したのがしゃれている。数多い場面転換は、コンテンポラリーダンスっぽい振付を入れてスピーディーに処理し、歪んだ幾何学的な舞台装置で内面の不安、コンプレックスを暗示する。額縁のようなフレームを数多く用いて空間を切り取る。何よりカフカの世界を読み込んでいる。演技もよく鍛えられている。
 完成度が高いだけに、後半の出演者が自身の心情を叫ぶシーンには、水を差された思いがした。アクセントをつけたかったのかもしれないが、いかにも唐突。カフカの不安を現代の高校生も共有していることは、敢えて生の言葉にしないでも、伝える術はあるはずだ。
 宮城県名取北高校『好きにならずにはいられない』 震災で失われた命への深い鎮魂の思いが、プレスリーの名曲に乗って会場にあふれた。いじめられっ子の今野と強引なアキ、アキと妹の幸。2組の二人芝居が交互に登場し、次第にそれは震災を挟んだ現在と過去のドラマであることが明らかになる。時制の違いを、ホリゾントの街のシルエットの有無で示す工夫が心憎い。時折乱入するコロスのダイナミックな動きも舞台にアクセントを与えた。
 ドラマは前半のコミカルな展開から次第にシリアスに移行していくが、その過程でアキのキャラクターが別人のように変わってしまうのに疑問を覚えた。せっかくのアイデアが結論ありきの予定調和に見えてはもったいない。最近の芝居には珍しくゆっくりと、一種の様式をもったセリフの作法にもいま一つなじめなかった。
 瓊浦高校『南十字星』 劇団四季のミュージカルを、高校演劇用に1時間のストレートプレイに仕立て直した。その力業にまず感心した。南方に進駐した日本軍のBC級戦犯の物語。憲法改正が叫ばれ、日本が岐路に立っている今、未来を担う高校生たちが戦争の理不尽を描いたこの作品に正面から取り組んだ意義は大きい。
 緻密な美術や衣装に並々ならぬ意欲が感じられた。セリフも四季の母音法を学んだのか、と思うほど粒だっていた。ただ一方で、そのあまりに誠実な取り組みが、四季の舞台の「なぞり」に見えてしまったのも事実。既成戯曲を使う場合の宿命だろうが、どこかに瓊浦高校ならではのオリジナルなこの戯曲の読みを見せて欲しかった。
 東京都立東高校『桶屋はどうなる』 戯曲で読んだ印象より実際の上演の方が数倍面白い。ゴキブリと突然変異野菜の熱く切ない友情物語。ドラマ展開の定番を押さえつつ遊ぶ遊ぶ。TV番組のパロディーにデトックス体操、マイムにラップ。2本のロープが遊んでいる内に遺伝子の二重螺旋になるアイデアには驚いた。笑いの連打の中から立ち上がるのは、食の安全に関する笑えない現実。皮肉の針は鋭い。
 そして、1時間をたった2人で見せきる俳優たちの存在感と演技力。特にゴキブリ役の運動量はハンパじゃない。幕切れ近く、ゴキブリは観客の目の前で脱皮≠オ、女子高生に変態する。破天荒な奇想が現実とつながる。その瞬間のインパクトにゾクゾクした。
 徳島県立城ノ内高校『三歳からのアポトーシス』 アポトーシスって何だ? 調べたら「あらかじめプログラムされた細胞死」のことだそうだ。それが分かったところで、この舞台はよく分からない。正直に言おう。よく分からない。何だか70年代のアングラな香りがする。
 薄暗い舞台で語られる埴谷雄高風の生命論と量子力学の知識。多分死と意識について語っているのであろう、言葉たちの意味を追うことに疲れ、音として聞き始める。闇を切り裂く美しい照明と溶け合って、それはそれで心地よい。でも、それでいいのか? 分からない。
 それにしても、よくこの観念的な膨大なセリフを覚えたものだ。どうやって? 秘訣をぜひとも聞きたくなった。

(演劇評論家)

 個人的感想である。最近の全国大会を観劇し、この二、三年の芝居の質の深化にはただただ驚かされている。以前は全国大会を見終わるたびに、高校生の周りの小さな出来事を微細に描く演劇が多い、という印象を強く持って帰路についたものだった。ところがこの数年間の大会は、私達を取り巻く時代や社会の深刻な状況を真正面に据えて、高校生としてどのように生きていくべきなのかを真剣に模索する芝居が著しく増えているのではないだろうか。恐れずに言うならば、「3・11」以降の高校演劇の大きな特徴となっている。人間の幸不幸、生死といったことすら、あっと言う間に踏み越えるような自然災害やある場合には人為的な事故の続発は、命の尊さと同時に、尊いがゆえに我々はかく生きる、という力強い意思を生み出しているのではないか。そうした視点から12の優れた芝居を講評していく。

 丸子修学館高校『K』

 フランツ・カフカの作品を選び出し、彼の作品とカフカそのものの苦悩と生き様を結びつけながら、舞台を高い演出力で創造した。一人の芸術家と作品を結び合わせ、観客に提示する方法は多くの芝居で行われているが、それらとの比較の上でも、作品分析の的確さ、舞台表現の美しさ、結びつける解釈の分かりやすさなどで成功した作品と言って良いだろう。ただカフカの持つ現代的な意味を模索するためにこの芝居があるとするなら、父との葛藤の内容をもう少し丁寧に描きつつ、その分、後半での現代の場面を私達の想像に任せる構造が必要であったかもしれない。とは言え優れた到達点を持つ舞台であるとの評価はゆるがない。

 名取北高校『好きにならずにはいられない』

 開幕してすぐのシーン、「結婚して!」と独特のリズムと雰囲気でユーモラスに語り始める女の子。そのリズムがあっという間に芝居の世界に観客を引きずりこんでゆく。そしてこの台詞の持つ意味がじょじょに観客に伝わっていく。津波で妹を(父と)を失った姉の切なる行動であることがわかってくる。後半部分の姉の思いは切実であり見るものの心を打つ。この高校が描きたかったのはまさにそこだったのだとするなら十分に成功している。ただ前半の魅力的なステージが、重い課題を背負ったシーンに突然、変化していく段差が気になる。最後まで独特の雰囲気を持ったまま走ることができたらと惜しまれる。

 北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)

 緻密に計算された優れた脚本と登場人物の自然な演技、どちらも見事である。校舎の片隅で細々と活動を続ける落語同好会。しかし部員にとってはここが自分たちの輝ける唯一の場所である。だからこそ部存続のため部員獲得を目的とする寄席を成功させようと必死に奔走するのである。そのステージは平面的な装置という問題点はありつつも、ウェルメイドのコメディとして完成している。「困難な時代だから笑いを」という芝居の奥底にある旋律もかすかに聞こえてくる。そのかすかな旋律をもっと強い説得力をもって聞かせて欲しかった。

 さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』

 開幕。自転車を漕ぐことによって教室が明るくなり、SHRが始まるというインパクトのあるシーンから芝居が始まった。黒い箱の転校生が次第に増えてくる。その逆に教室の同級生達が、そして先生までが消えてゆく。それは何故か、大事な結論は最後まで提示されない。そしてその決定的な意味づけは観劇中の、そして観劇後の我々にまかさせる。装置、照明、小道具などの変化などもあり、演劇部の仕掛けは成功した。とは言え「曾根崎心中」である意味、朗読する意味、箱の形などの意味合いをもっとクリアに描くなら、さらに魅力的な舞台になったのではないだろうか。

 瓊浦高校『南十字星』

 太平洋戦争は欧米に植民地化されたアジアの独立と繁栄を目指した戦いである、と当時の人々は思い込まされていたし、今でもその思想を再生産させようとする風潮がある。「この脚本は戦争をどう評価しているのか」観劇しながらそうメモをした。この高校は戦争のむごさを誠実に、必死に描こうとしている。その思いがあるからこそ、装置や小道具まで細部に渡ってあの時代を見事に再現できた。演技も達者だった。戦争という過去に臆することなく向き合う高校生の姿に感銘した。だからこそ、あの戦争で日本がアジアに仕向けたものは何なのか、ストレートに語る題材が欲しかった。

 沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』

 戦争や原爆といった過去の事実を、今を生きる高校生の生活とどう結びつけるのか、むずかしい課題に果敢に取り組んだ。その姿勢には敬意を表したい。構造は「過去を体験する」ことによって「今が変わる」である。そのためには「過去」がどのようなリアルな物語になっているかが勝負である。その点では原爆投下後、生き残った人々が陥った過酷な人生を「語り」ではなく「物語」として丁寧に描いていたら、どうなっていただろう。「今」を考える上で、さらに説得力をもった舞台になっていたかもしれない。

 鶴見商業高校『ROCK U!』

 役者が声を張りすぎて観客に聞こえない台詞があったり、演出がやや粗削りだったり、問題が散見された舞台であった。しかしそうした問題点すら高校生達のパワーあふれる魅力的な演技の前には吹っ飛んでしまう。文化祭の準備が進まないという目の前にある困難を友情の力で乗り越えるという定番の成功物語である、その意味では単純な構造だ。しかしその後ろからみえてくるのは、今尚多くの人々に重くのしかかる民族と言う課題である。それを「ROCK」で打開しようと言う力強いメッセージ。そして自由、友情の持つ意味をその困難な場所から捉えなおそうという膨らみのあるテーマ性。脱帽である。

 高田高校『マスク』

 コンプレックスのためにかけていたマスクを取ることができた少女が、最後にまたマスクをかけてしまうという、インパクトのある終わり方の芝居である。ハッピーエンドではなく、人との同調性が優先される現代を高校生の視点から描き、問題提起して終わるところが面白かった。ただギャクが際立つ中で、マスクを捨てた主人公がマスクをかけなければとじょじょに追い詰められていく恐怖感や孤独感がもっと欲しかった。そのためにはマスクをかける同級生の理由付け、マスクを嫌う少女の同級生の中での位置など、もう少しクリアにする必要があったかもしれない。

 都立東高等学校『桶屋はどうなる』

 二人芝居ではあるが、演技上手でしゃれた芝居に仕上がっていた。題名もいい。衣装も小道具もポップな形、そして毒々しさも含めて鮮やかな色使いで、芝居を豊かにしている。「風が吹く」から「桶屋がもうかる」までの空間的時間的距離を私達は想像する力を持たなければならない。ストーリーもテーマも明確である。ただ二人芝居は、二人ゆえにどうしても、印象深い幕開けとインパクトある結末に比べて、芝居の途中で劇的展開が弱くなるきらいがある。後半部分、若干、間延びした。思い切って切り詰めて良かった。

 城ノ内高校『三歳からのアポトーシス』

 量子力学など種々の学説と人間の在りようを重ね合わせ、舞台表現しようという野心的な試みの芝居である。演技者はよく頑張っていた。それゆえに伝えたいことを的確に伝えきれたかと言うと、いろいろな課題が浮かびあがる芝居でもあった。「的確」と言うのはすべてを安易に伝えよということではなく、伝えるべき情報を、芸術的な営みや芝居のスタイルをくずすことなく、かつ観客に飽かせることなく伝えられたか、ということである。照明や装置などを通してそのことに努力していることは分かる。高い総合力を持つ部であるがゆえに、伝えたいことを見る側に納得させる物語性が欲しかった。

 八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』

 島々の抱える事情も含めて地元を愛する気持ちをストレートに表出させたいい芝居であった。地方色の出し方の工夫、教室の作り方(掲示物も含め)の工夫、ギャクの工夫など、力を合わせてステージを作り上げたと言う思いが伝わってくる。ギャクに既視感があったり、演技にやや役割分担的な動きがあるなど問題点も感じるが、それもけっして大きな弱点ではない。これも筋としては文化祭を成功させるという成功物語である。しかしその後ろから見えてくるのは、青く豊かな海に点在する沖縄の島々であり、そこで生きる高校生達そのものであった。

 出雲高校『ガッコの階段物語』

 これも大震災を経て作られた芝居である。学校の階段の持つ意味が、一歩踏み出すための勇気の階段であったり、人生を終える天国の階段であったり、津波から生き延びるための命の階段であったり、その意味がテンポ良く替わっていく。その展開は独創的である。部内で智恵を絞り、ワイワイと作り上げたと想像される奇抜さに満ちている。被災地ではない場所から被災を描くためには徹底した誠実さ、リアルさが求められる。津波と幽霊という題材に違和感を持つとの指摘がいくつか聞かれたが、創造力のある部である、この姿勢を深化させていって欲しい。

 (北海道苫小牧南高等学校演劇部顧問)

ありがとう!
結果なんか気にしないで次の舞台を作ろう!

清野 和男 

時代を映す鏡

  高森  章 

 今年は、「教室空間」の舞台が多くを占めていたと思います。下手をすれば平凡な舞台になりやすい側面を持っていると思いますが、どの舞台もユニークな作品で楽しむことができました。ただ、楽しいだけに終わるのではなく、もっと奥深さを持った舞台であったらとも思いました。また、やや難しい哲学的・科学的な内容を持った舞台もあり、それはそれで深く考えさせられました。さらに、津波・原爆・戦争・食文化などをモチーフにした舞台も、私たちにとって忘れてはならない大切さを教えてくれました。ただ、スタッフワークの面で気になることがありました。照明が全体的に暗かったと言うことです。機材が古いからとおっしゃっていた審査員の方もいましたが、それは違います。基本的な照明の知識がないからです。役者を照らすのが第一義的な役割であることを再認識していただきたいと思いました。また、舞台空間の作り方、特に間口・奥行きなどは演じやすい大きさの空間を作って欲しいとも思いました。
 さて、私は一観客の立場に立ちたいという理由から、台本を意図的に読まず見させていただきました。ですから、まったく無の状態で見たので、役者の不鮮明な台詞・表情・リアクションなどは、見るうえで理解するのを妨げられたことが多々あったことは申し上げておきたいと思います。ですから、一校ごとの講評は、一観客の素直な感想としてお読みいただければと思います。

 長野県丸子修学館高等学校『K』
 見事に訓練された集団演技、そしてあれだけ多くの登場人物がエネルギッシュッに演じていたのは大変感銘を受けました。「また、カフカの実存主義の一端を理解できた気がしました。また、音響のキッカケなどスタッフワークも素晴らしいものがありました。

 宮城県名取北高等学校 『好きにならずにはいられない』
 アキさんと今野君の心がしっかりつかめました。台本上の構成でややパターン化した繰り返しがありましたが、それを補う熱演であったと思います。作者と皆さんの幸に対する思いがこの素敵な舞台を作れたのだと思います。

 北海道北見北斗高等学校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)
 軽妙なやりとりで、淡い高校生青春を演じきっていました。なんとなく心が明るくなり、こちらも青春をいたただきました。ただ、予想通りの展開で物足りなさは感じました。しかし、非常によく訓練された舞台であったと思います。

 栃木県立さくら清修高等学校『自転車道行曾根崎心中』
 曾根崎心中と少女との思いが、融合しているとは思えませんでしたが、自転車を使った舞台は非常に新鮮に感じ、みなさんの原発などの大気汚染や産業廃棄物などにに対する思いは十分伝わってきました。

 瓊浦高等学校『南十字星』
 精一杯演じていることに瑞々しさを感じました。書き割りの美術も素敵でした。ただ、断片的につなぎ合わせた感は否めず、芝居の奥深さが薄かったと思います。保科の透き通った演技は心に残りました。

 広島市立沼田高等学校 『うしろのしょうめんだあれ』
 原爆という重いテーマに果敢に挑戦していることはすばらしいことと思います。ただ全体的に、事実の説明に終わった気がしたのは残念でした。しかし、みなさんのひたむきな演技によって、原爆の悲惨さと、まだ原爆の問題は終わっていないということを、再認識させられました。

 大阪市立鶴見商業高等学校 『ROCK U!』
 スナとミエの気持ちはよく理解できました。ただ、会話の中で長々と切なく訴えることはドラマ性が薄くなると感じました。また、大切な台詞が聞き取れないところが多々あったのは残念でした。ダンスももっとエネルギーが欲しかったと思います。しかし、全員のアンサンブルのとれた演技は見事でした。

 高田高等学校『マスク』
 個々の個性だけでなく、グループごとの個性を出している演技に感服しました。最後どうなるんだろうという期待感。「普通」ということの人間生活での意味を大変深く考えさせられました。そして「マスク」に例えられた、人間社会での強制された一律さが恐ろしいと感じられました。

 東京都立東高等学校 『桶屋はどうなる』
 設定が面白く、また考えさせられる芝居でした。人間は食べなければ生きていけないのは当たり前ですが、その食についてもっともっと考えていかなければならないということを思い知らされました。欲を言えば、小道具の処理などを、段取りではなく演技の流れの中で自然に見えるような演出であって欲しいと思いました。

 徳島県立城ノ内高等学校 『三歳からのアポトーシス』
 漆黒と赤の芝居。それは人間社会の闇と生命としての血を表現しているのでしょうか?
 残念なのは台詞が聞きづらく、表情も見えず、観客は置いてけぼりだったのではないでしょうか?しかし、良く訓練された演技であったと思います。

 沖縄県立八重山高等学校 『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』
 大変面白く見させていただきました。ありもしない高校生もいましたが、自然に感じるくらいにうまく騙されました。地元の話題も自然に取り入れてあり、非常に好感が持てました。照明を明るくしたことや、地元の話題や曲も取り入れてあったことも成功した大きな原因であると思います。

 島根県立出雲高等学校 『ガッコの階段物語』
 設定は面白いと思いました。一つ一つのエピソードが、「人生を生きるということは、一歩一歩階段を歩み続けている」ということの象徴であると感じました。しかし、収束が少し安易になっていることが、面白さを無くしてしまったと思えました。しかし、演技者はテンポも良く、非常に緊張感を持って演じていたと思います。

 〈審査員として感じたこと〉
 優劣を付けなければならない現状において、脚本の読み込みをして舞台の評価をする場合と、無の状態から評価するのでは異なっていると思えました。審査員が観客とは異なる立場に置くか、それとも観客と同じ立場に置くかで違ってくると言うことであります。それによって、審査結果は当然異なってくるということを実感しました。教育は常に生徒の立場に立って、その視線を同じにしてやっていかなければならない時代です。この高校演劇も、そういった観点に立って考えていくべきかと思いました。そう言った意味で、出場校の皆さんは、たった七人が決めた結果を気にせず、自分たちの上演した作品が最高であったと思って、今後も演劇作りに励んでいただきたいと思います。
 上演していただいた学校のみなさん、熱い青春を届けてくれてありがとうございました。

全国高等学校演劇協議会顧問

 昭和五六年の秋田大会以来約三十年にわたって全国大会の芝居を楽しんできました。その一つひとつの舞台は、高校生が生きている時代を的確にとらえて表現しています。いくらか記憶をたどってみますと、受験偏重主義下の高校演劇部を生き生きと描いた『さざんがきゅう』(昭五十六)、保健室登校生を取り上げた『トシドンの放課後』(平十七)、いじめ問題を掘り下げた『ともことサマーキャンプ』(平二十一)等々。その時代その時代の問題に切り込んだ印象的な舞台が続いています。高校生、現場の先生の新鮮な切り口の舞台に、笑いを抑えきれなかったり、恐ろしさに顔があげられなかったりの記憶が今でもよみがえってきます。正に高校演劇は「時代を映す鏡」です。
 今回は、幸いにも事前に十二本の脚本を読むことが出来ました。それぞれに現代社会が抱える問題を独特の感性でとらえて表現しています。どんなすばらしい舞台が登場するのか。心躍らせながら長崎に入りました。

 長野県丸子修学館高校『K』は、難解なカフカの小説『審判』『城』『変身』を並行して舞台化することによって、不安と劣等感を抱きつづけた彼の人生を分かりやすく描いていました。これを高校生が書き上げたことに大きな驚きを覚えます…。舞台美術では、中央のカフカの位置する床面が斜めに作られていて、不安に苛まれる彼の立場を的確に表現できていました。また、重たいテーマでありながら、軽妙でテンポがよく、飽きさせない舞台でありました。

 宮城県名取北高校『好きにならずにはいられない』は、人を信じることができなくなって、かたくなに他人の好意を拒み続けるタマちゃんにも、亡くなった幸の「純粋な気持ち」は姉の熱意で通じました。心を打たれる幕切れでした。影絵のような遠見とフェンスはよくできていて、フェンスはコロガシが当たるとさらに効果を増していました。また、場面転換の間奏曲とダンスやコロスの動きが小気味よく、しゃれた舞台に仕上がっていました。

 北海道北見北斗高校『ちょっと小噺。』(ちょこばな)は、部員不足・廃部の危機からバレンタイン寄席を実行する落語研究会のドタバタをさわやかに舞台化。義理チョコ、思い違いの本命チョコ、サプライズの本命チョコ、ホワイトデーのリターンマッチ等々、『粗忽長屋』の熊さん、八つぁん、与太郎そのままに、楽しい舞台が続きました。そして、笑いの力で、文化部の逆境も吹き飛ばしてくれたような爽快感を感じました。
 栃木県立さくら清修高校『自転車道行曾根崎心中』は、失われていく故郷を守ろうとする話だと思います。『曾根崎心中』と「失われていくもの」を結び付けて表現していたのではないかと思いました。幕が開くと、高校生たちが一斉に自転車をこぎ始めるという度肝を抜くシーンから始まり、不気味な黒い箱の転校生登場、次々に転出していく同級生達と、次にいったい何が起きるのかと、ハラハラ、ドキドキの展開が巧みでした。

 長崎県瓊浦高校『南十字星』は、ミュージカル、それも二時間は越えるであろう原作を、六十分の舞台に書きかえることが出来るのかと心配でした。しかしながら、芝居になっていました。その苦労に賞賛をおくりたいと思います。また、日本をとりまく情勢の中で、平和を願う芝居に取り組まれたことは意義があったと思います。
 広島市立沼田高校『うしろのしょうめんだあれ』は、平和研究部の生徒が「被爆体験記」を読んでいくという展開の中で、「広島の悲劇を忘れてはならない」というメッセージが、心の奥深くまで伝わってきました。大黒を使い、間口をせめて適切な空間が作られていました。また、高校生目線で芝居が作られていたことで、知らず知らずのうちに舞台に引き込まれていました。

 大阪市立鶴見商業高校『ROCK U!』は、自分たちの置かれている状況に真正面から取り組んでいて、それがダイレクトに伝わってきました。また、登場人物がそれぞれに個性ある存在で、うまく噛み合っていました。とくに「九ちゃん先生」。独特の雰囲気で、「こんな先生、おるな。おる、おる」と苦笑いしてしまいました。

 三重県高田高校『マスク』は、社会学者リースマン著の『孤独な群衆』を思い出しました。現代人は「他人指向型」であり、他人や権威に同調する傾向が強いとする分析です。「普通がええの。普通にすごしていきたいの」と言わせてしまう、人間の個性や存在感を認めようとしない大衆の「同調圧力のぶきみさ」を強く感じた舞台でした。

 東京都立東高校『桶屋はどうなる』は、より安全なものを美味しく食べたいという「食の安全」を、ゴキブリの世界を通して、押し付けではなく、受け入れやすい手法で表現しています。それはもちろん、現代の若者への訴えであり、ラストの女子高校生への早変わりシーンで強調されていました。また、二人だけの芝居で苦労はあったと思いますが、衣装や縄跳びなどで、お客さんを引き付ける工夫ができていました。

 徳島県立城ノ内高校『三歳からのアポトーシス』は、脚本を読んだ段階では理解しづらい芝居でしたが、実際の舞台は、分かりやすくなっていたと思います。難解な舞台をたった四人でたくさんの登場人物を演じ分けていたのに驚かされました。その演じ分けが分からないくらいに巧妙でした。それに何と言っても、主役の「男のようなもの」の存在感。地の底から響いてくるような太い声が舞台全体を圧倒していました。

 沖縄県立八重山高校『0(ラブ)〜ここがわったーぬ愛島(アイランド)〜』は、沖縄が直面している問題を各所に盛り込みながらも、全体としては高校生目線で舞台が展開していたので、その思いはすっきりとお客さんに届いていたのではないでしょうか。間口を狭めて、出入り口を正面に近いところに持って行ったのは正解です。適度な間口はお客さんを舞台に引き付ける効果がありましたし、出入りの芝居がいきいきとしていました。

 島根県立出雲高校『ガッコの階段物語』は、「私たちの目の前にある階段は何のために上るのか」という自問自答を、いろいろな見せ場を盛り込みながら描いてくれました。「生きるため」「生き延びるため」ということでしょうか。高くそびえる階段は、「立ちはだかる」という存在感のあるセットでした。また、キャスター付きの椅子の利用は、スピーディな舞台転換に効果的でした。


(全国高等学校演劇協議会顧問)

日本一幸福な時間

森藤  舞

 まずはじめに、今回のしおかぜ総文祭で生徒講評委員長として関わらせていただいたことを本当に感謝しています。全国の演劇部と全国レベルの劇を観劇し、語り合ったことは、一生に一度の貴重な体験でした。
 生徒交流会では生徒講評委員として参加し、ダンスとボディーパーカッションをしました。初対面で互いの事を知らない状態での練習でしたが、時間が経つにつれてだんだんと慣れてきたのか、次第に仲良くなり、息も合ってくるようになりました。そして生徒交流会当日は会場が盛り上がって「おー!」という声なども聞こえてきたので、生徒講評委員全員が満足のいく舞台にすることができました。この生徒交流会も大切な思い出のひとつです。
 お互いに出会って2日目から講評活動が始まり、最初は練習で2つの作品のビデオを見て、ディスカッションしました。私がここで驚いたのが、つい先ほどまでふざけ合ったり、楽しそうに話をしていたメンバーが、劇が始まったとたんに真剣な表情になり、ディスカッションの中でも各々が劇についての感想や思いなどを活発に語り合ったことです。どんな討論になるのだろう、と内心ビクビクしていた私は、目の前で行われている討論に圧倒されながらも、自分なりに意見を言ったつもりだったのですが、やっぱり全国で選ばれただけあってすごいなぁ、と少々上から目線がちに思っていました。その1日目で全員がとてつもない程演劇が好きで、「この講評委員メンバーは演劇馬鹿の集まりだ!」と勝手に確信しました。3日目からはいよいよ全国レベルの劇を見てのディスカッション。どうなるか楽しみでした。やはり討論は活発でした。生の劇を見てすぐの討論だったので、なおさら活発でした。なかなか難しい内容の作品もありましたが、各々が自分なりに感じたことを言葉にし、意見を共有し、作品について深く語りました。さらにその夜、戻ったホテルでその日に語り合ったことを講評文として作成しました。私たちが語った熱い思いを文章にするのはとても難しかったです。それでも会場に来て下さった皆さん、上演校の皆さんに私たちの想いを伝えたい一心で生徒講評委員一同頑張りました。
 私はこの活動を通してひとつだけ後悔したことがあります。それは、私は高1から演劇部での活動を始めたのですが、もっと演劇馬鹿でありたかったことです。高3の受験間近の時期にさしかかった今、もっと演劇がしたかったと思いました。それでもこの時期だったからこそ得たものは大きかったし、何より全国レベルの劇を全て見ることができたこと、演劇について語ったこと、生徒講評委員長をさせていただいたこと、この17人と出会い講評ができたこと、すべてに感謝しています。本当に充実した高校生活最後の夏休みでした。演劇やっててよかった!本当にありがとうございました。

(生徒講評委員長  鎮西学院高等学校)

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