タイトル   復刊第90号(静岡大会特集号)Web版

4.全国大会を 審査して         衛  紀 生

 全国大会を観るのは、長岡大会でNHKの中継の解説をして以来のことだから五年振りのことである。
  そのあいだ県大会やブロック大会の審査は年に一、二回程度はしていたのだが、あらためて今回の十一校の舞台に触れて思うのは、高校演劇はこの五年間、一定の水準を保ちつつ、時代の変化を映しながら少しずつではあるが進化している、ということである。
  結局、文部大臣奨励賞には愛媛県立川之江高等学校の「ホット・チョコレート」(作=曾我部マコト)、文化庁長官賞に作新学院高等部の「ジャンバラヤ」(作=大垣ヤスシ)、千葉県立船橋旭高等学校の「山姥」(作=土田峰人)、兵庫県立尼崎北高等学校の「好色十六歳男」(作=永山祐介)を推薦し、その四校が東京・国立劇場での成果 発表を行うこととなった。
  「ホット・チョコレート」と「山姥」は、まったく別の性格と様式をもつ舞台であったが、この二作品は審査委員のあいだでは抜群の評価であった。また、「好色十六歳男」は生徒創作らしい物事への眼差しと、それに裏打ちされた「ユーモア」があり、演技としては難点があるにもかかわらず、私は高く評価をした。
  実のところ、「ジャンバラヤ」は接戦であった。といっても、決して作新学院高等部の成果 に曇りを生じさせることはないだろう。それほど、全体的に水準が高く、しかも残念ながら高校演劇に共通 する問題点をすべての舞台が持っていたということなのだ。
  問題点は大きく戯曲作成の面と、演技の、すなわち演出的な側面にわけられる。
  戯曲作成の側面から言えば、高校演劇はどうしてもラストに「起承転結」の「結」をまことに明確に持ち込みたがる、という非演劇的な行為が伴ないがちである。結論は観客の想像力に「ゆだねる」という観客の側からみた演劇ならではの楽しみが高校演劇には、「ない」とは言わないが、きわめて希薄であるのは確かな事実である。
  別の見方をすれば、よい意味での演劇的な「隙間」がないのだ。芝居をきっちりと「結んで」くれるのは一見有難いことのように思えるが、観る者にとっては舞台の内部で自己完結してしまうので、結局は舞台の傍観者の立場に陥し込められてしまう。
  演劇は映像などとは違い、観客という存在があって初めて成立するメディアであり、それがすなわち「劇場」というメディアなのである。寺山修司氏の「芝居の半分は私たちが創り、後の半分は観客が創る」という言を待つまでもなく、劇場というメディアは、舞台と観客との想像力がせめぎあう「磁場」によって成立するのである。
  だとすれば、なんとか結論を導き出して、それを舞台上で表現してみせるのは、観客を客席に閉じ込めてしまう所業と言わざるを得ない。
  「必然」を丁寧に積み上げていけば、「結語」は必ずしも必要ではない。それは「蛇足」というものである。個人的な好みを言わせてもらえば、「抹香臭く」て遣り切れなくなるのだ。それなら一部の隙もない作品よりも、若干の若書きや勇み足があっても生徒創作のほうが演劇的には面 白く観ることができる。
  私はここで顧問創作がわるい、と言っているのではない。しかしながら、劇作という作業をするのなら「教師」という立場からいったん離れて、「一人間」として「人間」を描くという原点に戻るべきではないか。これだけ毎年のように優れた成果 をあげながら、それらの作品が「高校演劇」という枠に止まってしまい、作家の払底している演劇界の活性剤にならないのには、そのあたりに問題が潜んでいるのではないだろうか。
  私は高校演劇の戯曲の中から、それを二時間半程度にブローアップして専門劇団がレパートリーにいれるような事態があってもよいのではないかとずいぶん以前から考えてきた。米国のルイビルのフェスティバルには全米から多くのプロデューサーが集まり、「テン・ミニッツ・ストーリー」という十分間のワンプロット・リーディングの発表に注目するという。そこから新人作家を見つけ出し、一本の舞台に仕上げていくのである。
  専門劇団や劇場のプロデューサーは、作家の払底を嘆くひまがあるのなら、高校演劇を観てまわるくらいの努力はしてもよい。五年前の長岡大会でも、今回の浜松大会でも、ブラシアップすれば面 白くなるだろう原石は転がっているのだから。
  話が脇道にそれてしまったが、ならば顧問教師というのはどのような仕事をすべきなのか。私は生徒たちに自分たちの生活や社会の出来事に関心を強く持つモチベーションづくりをするのが顧問教師のまずしなければならない仕事だと考えている。それがたまたま「創作する」という生徒に何かを投げかける仕事であったとしたら、それはそれで生徒たちの話し合いと想いのなかで舞台は必ず進化していくだろう。
  五年前の八王子高等学校はAIDS問題を扱った舞台が、都支部大会、都大会、関東大会、全国大会と進化して、当初の舞台とはまったく印象の違う舞台となって説得力を持っていたことを私は知っている。生徒たちのAIDS問題へのモチベーションの高さがあの舞台を進化させたのだ、と私は今でもそう思っている。彼らは素晴らしい意識を高校生活で獲得して卒業していったのではないだろうか。
  「すべてを語らない」という意味で、今回では川之江高等学校の「ホット・チョコレート」と尼崎北高等学校の「好色十六歳男」は出色の舞台を創り上げた。ともに終幕で結論めいたことは言わせないで、観客に「ゆだねる」姿勢が見て取れた。
  「すべてを語らない」ということが、演技の部分でもキーワードとなってくる。 さすがに正面 を向いて、大声で自分の科白をがなりたてるということは少なくなった。まったくなくなったわけではないが、これは良い傾向として評価したい。すべての主張を科白に込めて訴えかけるということ、一見正当のように思えるが、ドラマは、それを聞いている相手役とのあいだに立ち昇るものなのだ。「科白」は訴えかけるためのものではなく、そのための部分的なツールでしかない。
  私は全国各地で地元の俳優やスタッフと東京の人材とのコラボレーションで芝居を立ち上げる仕事をここ数年やっているが、いい素質を持った俳優は、シアターゲームをしている段階ではっきりと分かるものである。たわいのないゲームなのだが、ゲームのなかで相手にきちんと「渡せない」、自分のことだけしか考えられなくなってしまう人間は、本読みのワークショップに入っても絶対にドラマを創り上げられない。自分ひとりで芝居をしてしまうのである。
  高校演劇は、もう一度、「渡す」「渡される」という関係づくりの基本に戻ってはいかがなものだろうか。言葉や行動を「渡し」「渡される」なかで、彼らは新しい発見をするに違いない。表面 的には演技がうまく見える役者も、これをやるといかに自分本位でしかない、相手の科白の「音の違い」に柔軟に反応できない役者だったりするものだ。
  それに私は、高校演劇に限ったことではないが、「うまい役者」ほど当てにならないものはない。テンションは高くもてるのだが、相手役とのアンサンブルを壊しまくる。結果 として、舞台は詰まらないもの、すなわちドラマが劇場内に立ち昇るものにはならない。 八十年代の小劇場演劇は、手に余るほどの「誤解」をばら撒き散らして終息した。
  たとえば「テンション」とは大声で科白を言いながら舞台を疾走するように思われていたが、「テンション」とは芝居をにぎやかしにすることではなく、まさに呼んで字のごとく糸を張り詰めたような「緊張感」のことであり、何もない「間」や「静寂」というものに強迫観念をもって科白を間断なく大声で喋りまくることでは決してない。
  また「テンポ」についても同じようなことがいえる。早口で喋り捲って、「間もなく」予定調和のように科白をつなぐことが「テンポ」なのではない。「テンポ」とは観客の中に生じるものであって、舞台の上で自己完結するものでは決してない。朴訥な科白のやりとりであっても、観客にはテンポを感じられるのである。それは「間」や「静寂」が多弁になるような設えが演技に施されているからだ。概して「笑い」というものは、そのような「テンポ」から生まれる。川之江高等学校の「ホット・チョコレート」と尼崎北高等学校の「好色十六歳男」の演技にはそのようなものが垣間見えた。
  船橋旭高等学校の「山姥」の凄さは、そのような「テンポ」と「テンション」を一時間持続させたことだろう。(例外として客席の客をいじったところは蛇足である)囃子方の生音をふんだんに使っているとはいえ、これは並大抵のことではない。その点では、前記二校を大きく引き離していると言えよう。しかし、物語が舞台の中で完璧に自己完結していて、観る側に訴えかけてくるものがなかった。素晴らしいと思ったが、白磁の壺のようで完璧すぎる、一部の隙もない、という点が、審査委員の心をいまひとつ動かせなかった点なのではないか。完成度から言えば船橋旭高等学校の「山姥」が群を抜いていただけに惜しい。それだけ高校演劇の様々な問題点もこの舞台にはあったということなのだろう。
  高校演劇のここ数年の進化といえば、「暗転」でドラマを切らなくなった点を上げられる。これは全国大会だからなのかも知れないが、「暗転」を加工してドラマの進展の邪魔にならない、つまり「芝居を残す」ような転換が多く観られたことは嬉しくもあり、また感心もした。
  「ホット・チョコレート」のように時間の推移を「暗転」なしで進めようとする創り方もでてきた。それでも充分に観客は了解するのである。想像力とはそういったものである。「暗転」の多い舞台は、今度は観客の「テンション」を殺いでしまう。息を詰めて緊張感をもって舞台に接し、想像力を発動しているのに、「暗転」では観客としてかなわない。「加工」することをもっと学んでほしい。
  今回もいくつか見受けられたが、「大きな物語」を取り上げて、時間を追ってその物語を展開する場合に、その時間の経過を暗転で見せてしまうケースがある。これが多いのは高校演劇と商業演劇である。これだけはできるだけ避けてほしい。どうしても「暗転」をしなければならないのなら、どのように「加工」するかに腐心してほしいものである。
 審査をするというのは辛いものである。専門家たちの舞台なら水も漏らさぬ厳しい批評眼で接することはできるが、相手は高校生である。高校生だから批評が甘くなる、というのではない。批評的な行為としてはプロも高校生も同じ俎上に乗せるのだが、辛いのは、彼らのすべてが将来の演劇人を目指しているわけではなく、地域で演劇を支える人や、優れた鑑賞者になる可能性のほうが高い人たちだからだ。
  その生徒たちの舞台に一等賞や二等賞をつける決定をすること自体に、私は矛盾を禁じ得ない。
  様々な問題点を孕んでいながらも、皆が「一等賞」であってほしい。ひとつのアートを皆で創り上げるということは、様々なことを手を携えて乗り越えなければできないことであり、少なくとも全国大会に出場した諸君たちは、それを越えて一定水準の舞台を創り上げたわけだから、私は皆に「一等賞」をあげたいのだ。
  そのうえで課題は課題として来年に向かって鍛錬してほしいと思っている。
  私の考えは贅沢に過ぎるのだろうか。しかし、高校演劇はせめてプロの予備軍ではない、という考えの中で審査をしたいと、いつも熱烈に思うのだ。だから、講評では皆が一等賞であるべきだと考える。「一等賞」のうえで、それでも沢山の課題があることを彼らに正確に伝えたい。本当に、いつもそう思っているのだ。
(演劇評論家、特定非営利活動法人舞台芸術かんきょうフォーラム地域演劇マネジメントセンター理事長)