復刊96号  WEB版


語ることの  大切さ 斎藤 洋

 演劇にはそれにふさわしい環境というものがあるだろうと思います。
 例えば劇場。作り手にとっても観客にとっても快適な空間というものがあるでしょう。そこで私たちは演劇の楽しみを十分に味わい更には新たなる世界を創出する楽しみを発見するのでしょう。所謂多目的ホールではなく、演劇専用ホールの建設を望むのは当然であり、それが演劇運動の一つでもあるだろうと思います。全国各都市に演劇専用ホールが、それもすばらしいものが生まれていることは芸術文化振興のためにも慶ぶべきことではあります。
 さて、高校生の舞台です。よりよい環境で舞台創造をと望むのは私だけではないでしょう。適正規模の会場で(どの程度が適正規模であるかは異論のあるところではあろうが)舞台を創らせてあげたいと思うのも、私だけではないでしょう。その意味で全国大会の会場は決して恵まれた会場とは言えないでしょう。誰しもが、それは認めている事実でしょう。しかし年に一回の全国大会です。全国からこの日のために集まる高校生に仲間たちの優れた舞台に生で接して欲しいとすれば、大きな会場も致しかたなしとすべきでしょうか。
 言うまでもなく演劇は、作り手と、観客によって成立します。だがその責任の大部分は、作り手にある、というのが私の考えです。つまり、作り手が劇場空間を圧倒的に支配するのです。高校生の舞台といえども、それは同じだといえます。年に一度の全国大会という大会場は、出場校にとっての条件は全く同じです。それならば、劇場空間に即した舞台創りが工夫されなくてはならないでしょう。劇場空間に即した舞台創りとは、第一に舞台の声が観客席に届くことです。その点では、まだ大きな声を出さないと観客席に聞こえない、メッセージが伝わらないのではないかという誤解をしているとしか思われない舞台がありました。勿論、正面を向いて観客席に顔を向けて大きな声で語らなければならないというのではありません。観客席に背を向けても、つぶやきであっても、伝えるべきことは伝えるという語り方が舞台にはあるのではないでしょうか。
 照明や音響効果、殊に音楽の使い方は、どの出場校も高いレベルにあったと思います。装置もそれぞれ工夫が凝らされていたと思います。(今年は、ホリゾントを使わない舞台が多かった感じがしました)それだけに、私には舞台の声が気になりました。気になって仕方がなかったと言った方がより正確でしょう。勿論、すべての舞台がそうだったというわけではありません。私たちの席が劇場内では舞台の声が届きにくい席ではあったようですが、それでもはっきりと声を聴き分けられた舞台があったのです。日常の訓練が行き届いていたと、感心させられました。一方、一人での語りはよく解るのですが、相手とのやり取りになると何を言っているのか聴き取れない舞台がありました。また、ことばは悪いのですが、台詞に酔ってしまって伝えるべきことが伝わらないという舞台もありました。残念です。
 さすがに全国大会です。どの舞台もすばらしいものでした。息もつかせぬリズムとテンポ、それでいて「間」のすばらしさ。審査員席にいながら一人の観客として十一本の舞台をほんとうに、心ゆくまで楽しませてもらいました。高校生の豊かな感性をすべての舞台に観ました。個々の演技のすばらしさにも感心させられました。その日々の稽古の量と質とに想いをはせ、一人の演劇部顧問として勉強もさせられました。
 それだけに、それだからこそ、舞台での声、語り、喋りが気になったのです。台詞を与えられたものとしてではなく、かけがえのない自分の身体を通して語ることの大切さ。高校生の舞台に接する中で、私の学ぶことの方が多かったと、ほんとうにそう思っています。 (秋田県立新屋高等学校教諭   秋田県高等学校演劇協議会理事長)